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1997年スリジーで行われたジャック・デリダをめぐるコロックの論文集『自伝的動物』が公刊された。この論文集には『L'animal
que donc je suis (a suivre) 』と題されたデリダのテクストが収録されている。このテクストが端緒についたばかりのデリダの動物論の、しかも十二時間にわたって続けられた講演の冒頭にすぎないことは表題末尾の「a
suivre 続く」の示すとおりだ。しかし、そもそもこの表題は一体何を意味しているのか。 |
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この表題の言葉の連鎖は、まずデカルトの「我惟う、故に我ありJe pense, donc je suis」を想起させる。そのとき読者は、論理的帰結や強意を表す語donc
に当惑を覚えつつ、ただちに表題を「私がそうであるところの動物」と翻訳するだろう。ここに表明されているのはデリダの動物論の反デカルト的な含意だ。デカルトこそ、「私」の存在を思惟する行為に結びつけ、動物を思惟することなき「機械」として、人間的な世界の外に追放した哲学者なのだから。さらにアリストテレス以来哲学の伝統が人間に「理性的な動物」という定義を与えてきたことを考えあわせれば、デリダの批判が「理性」を「人間」の本質としておく「哲学」の総体に向けられていることが認められる。 |
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しかし「a suivre」という表題末尾の語は、表題中の動詞「suis」が、「etre ある、である」と同時に「suivre
続く、後を追う」の一人称単数であることを強調している。そのとき表題は「私が後を追う動物」と翻訳されよう。この「suis」の二重性が、すでにデリダの反デカルト主義、反哲学主義の向かう方向を暗示している。即ち「私」がそれ自体として独立してあることなく、時間的なずれにおいて、「私」に先立つ、あるいは「私」の後に来る何ものかとの関係においてあることを喚起すること。その何ものかを「動物」と名指すことによって、表題は「je
suis」の様態にさらに屈折を加える。それは、デリダという一人の哲学者の探究と情熱の対象が動物であることを示すのみならず、同時に「私」が「私」として存在する以前に動物が存在したという神話的、自然史的な事実と、「私」が「私」として存在するために狩り、殺し、食べる他者の存在とを呼び起こすからだ。その「私」一般のエコノミーからは、デリダの「私」もまた逃れるわけにはいかないだろう。こうして、愛惜の対象でありながらも、人間的世界が人間的世界として存在するために忘却し、抑圧し、殺戮してきた「存在」あるいは「自然」が、「動物」の名のもとに立ち現れてくることになる。 |
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だが、表題の多義性は決して「suis」 の多義性にとどまらない。というのも本文のなかでデリダは、人間と動物の分割を名づけに、しかも複数の動物たちを単数一般名詞「animal」という言葉によって一括する名づけにこそ求めているからだ。彼の動物論の焦点は、言語の使用を一方的に人間の側に承認する一方で、動物たちをただ名づけられるがままにされ、沈黙のうちに人間にとっての対象としてとどまるほかない存在として決めつけてきた哲学の伝統に対する異議申し立てにある(ここでルソーの『言語起源論』が「パロールが動物のなかで人間を区別する」という一文に始まることを思い出しておくのも無駄ではないだろう)。とすれば、表題中のL'animalという言葉は、動物たちに対する名づけを反復しつつ、動物たちに呼びかけ、彼らの応答を求めることによって、その名づけが前提とする言語に関わる人間と動物の間の一方的な非対称性の想定を覆す意図をはらんでいる。「動物よ、私とは一体何なのか」、「動物よ、私は一体何の後を追っているのか」、「動物よ、私は一体なぜあるのか」、「動物よ、私は一体なぜ後を追うのか」。これらの問いかけは、『自伝的動物』という論文集の総題と呼応して、言語によって過去と現在と未来を連関させ「私」の「生」の同一性を構成する人間的存在の条件が、動物という他者との関係において考察されていくことを予告している。 |
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だが、この問いかけに対して動物たちが応答するとしたら、それは一体いかにしてなのだろうか。その応答を、人間=言語の圏域のなかにいる「私」たちが聞き取ることはいかにして可能なのだろうか。その応答を受け取るためには、「私」たちもまた動物たちの後を追わなければならないだろう。むろんその動物たちのなかには、統辞法の定かならない表題を「私」たちに向かって投げ出した一匹の動物が含まれている。 |
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