Critical Space Archive

 年末のある週末、コレージュ・ド・フランスによって『ヨーロッパの文学的同一性』を巡るシンポジウムが開催された。演壇の上にコレージュの新旧の教授連がずらりと顔を揃えた開会の部で、最初の講演に立ったのはマルク・フュマロリだった。
 『アリステウスとオルフェウス』と題されたその講演において取り上げられたのは、ウェルギリウスの『農耕歌』の末尾の一挿話だ。――蜜蜂を失って嘆く牧人アリステウスは、その不幸が彼の引き起こした事故によって妻を失ったオルフェウスの復讐によるものであることを知る。黄泉への道行きから凄惨な最期へ至るオルフェウスの物語を聞いたアリステウスは、オルフェウスに供物を捧げる。と、その供物の血の滴りからは蜜蜂たちが飛び立つ..... フュマロリはこの挿話に、あくことなく自然を征服しようとする活動の原理としてのアリステウスと、自然と同期しながら歌いつづける精神の原理としてのオルフェウスの対立を見いだし、この対立が、王と詩人、国家と哲学者、ブルジョワと芸術家などの変容を経た後、『オルフェウスへのソネット』のリルケにも受け継がれていることを指摘して、二千年の時間と全ヨーロッパの空間を貫く「想像界の普遍概念」の存在に「ヨーロッパの文学的同一性」を託してみせる。
 フュマロリの言う活動と精神、あるいは政治と詩の対立といった図式は一見極めて通俗なものだし、彼の「想像界の普遍概念」もかつてクルティウスの語った「トポス」の言い替えにすぎない。ただこの通俗性が、ヨーロッパの通貨統合の動きを背景に持つ今回のようなシンポジウムにおいて帯びている悪意を見逃してはならないだろう。実際、精神を活動に対立させるフュマロリの口振りには、EU統合を巡って世の中はかまびすしいが、文芸に携わる者にとってそんなことは知ったことではない、とでも言いたげな底意が透けて見える。
 しかし、その悪意は、政治に対して文学を対置するといったロマン派的な態度にとどまるものではない。そもそも浩瀚な『雄弁の時代』によって、ランソン以来の文学史研究の「文学」概念の狭隘と、バルトらのテクスト論の似非科学主義と政治主義を批判し、「修辞学の歴史」を声高に要求したこのアカデミー会員にとって、クルティウスが依然ヨーロッパの同一性のために必要とした「文学」などいささかも自明ではないからだ。彼が「文学」に対置する「雄弁」とは、ただ文芸にとどまらず、宗教、政治、諸学問など言語行為一般を統合する知の体系であり、政治に対立したり従属したりするどころか、宮廷での所作からサロンにおける会話まで含めて政治的な共同体自体を可能にするような言語の行使に関わる実践の体系なのだ。そして、彼が17世紀フランス古典主義に認めるのは王権と教会組織の協業を介して達成された近代ヨーロッパの「雄弁」の完成形態であり、オルフェウスとは、その古典主義の修辞学の伝統において、文化と文明の、つまり人間社会一般の起源におかれる神話的な雄弁家に他ならなかった。だからオルフェウスを語るフュマロリは、政治と文学の位階をひそかに転倒し、修辞学からの切断を意志した18世紀以来の哲学や文学の系譜をも自らのうちに取り込んで、無窮に持続するヨーロッパの修辞学的同一性を描き出してほくそ笑んでいたかもしれないのだ。開かれた同一性?そのような言葉にだまされてはならない。すべてを飲み込んでなお、ヨーロッパは揺るぎなく在る。
 だが、再びオルフェウスに立ち戻ろう。バッカスの祭で身を引き裂かれて惨殺されたその最期をウェルギリウスは歌う。「大理石のような首から引きちぎられた彼の頭がヘブルスの河の渦に巻き込まれ流されて行く最中にも、凍てついたその舌は、なおひとりでにエウリディケーを呼びつづけた。おお、哀れなエウリディケー!流れに沿って両岸から木霊が返った。エウリディケー、エウリディケー!」――この「舌」の呼び声は、あるいはこの「木霊」は、いかなる同一性をも越えてわれわれに響いてこないか。その響きを聞き取り、聞き取ることによって歪める、そういった耳が、われわれには必要とされていないか。

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