Critical Space Archive

68/98 回顧と遺産
 1968年5月からちょうど30年、この5月のフランスはにぎやかにその記念に明け暮れた。
 新聞やラジオは連日30年前の「その日」の出来事を報道したし、雑誌は次々と特集号を組んで五月の回想を掲載している。テレビでは当時の実録フィルムが放映され、街中ではあちこちの映画館が六八年のレトロスペクティヴを組んだ。書店には「回顧本」のコーナーがしつらえられ、十周年、二十周年の際の同種の本の再刊から最新刊の歴史研究、写真集、CDまでもがズラリと並べられている。見渡すかぎりメディアは回顧、回顧、回顧、これ一色といった具合で、何かと素頓狂なことをたくらむ日本の資本主義に慣らされたこちらの眼には、当時の学生によって剥がされた舗石の記念発売とカルチェ・ラタンでのバリケード闘争の再演が見あたらないのが不思議なくらいだ。
 68年5月の「主役」をもって任ずるかつての学生たちが、いまや五十代の「管理職」となって様々な企画にたずさわっていることを思えば、この大回顧展が本質的にセンチメンタルで保守的な催しであると言ってもかまわないだろう。そればかりか、もっぱらマスメディアによって担われている今回の回顧がいささか滑稽でさえあるのは、当の30年前の反抗が、「見せ物の社会」(ドゥボール)あるいは「消費社会」への批判を声高に叫んだものであったせいだ。有名人として引っぱり出される作家や哲学者たちが、現時点において自らがどこから語っているのかという問いを欠いたまま、68年5月の画期性をいかなる「前衛」によっても指導されることもない大衆蜂起の自発性やその匿名性に求めたりするので、もはや事態は滑稽であることさえやめてしまうのだが。
 さまざまな記事や回想に目を通しても、「叙情的でロマンティックなしかたで」とか、「今こそ反抗の不可能性に対する反抗が」とか、「愛の反抗、かつてない感情の爆発」とか、妙に「ハイ」でありながら空虚で、それでいてどうやら真剣そのものであるらしい言葉が並んでいるのに出くわすと、いささかうんざりせざるをえない。そもそも当時まだ生まれてさえいなかったこの項の筆者にとっては、「68年5月」とは、ことあるごとに喚起される神話的な起源のようなものにすぎないのだから。
 だが、68年5月、そこでは一体何が起こったのか?
 5月3日。3月以来、女子棟への夜間の訪問・滞在を禁ずる学生寮の規約の撤廃などを求めて運動を展開していたパリ大学ナンテール校の学生たちは、その日キャンパスの封鎖に伴って学期末試験を控えたソルボンヌの中庭に集結した。この学生たちに対してパリ大学学長は警官隊の導入を要請する。逮捕者約500名を出したこのパリ大学による警官隊導入は、中世以来国家権力の実力の導入を拒んできた学問の府の暴挙として批判を浴び、5月の大衆運動の口火を切った。しかしこの時点で誰もそのような事態を予測してはいない。当日の共産党の機関誌には留学生コーンミベンディット率いるナンテールの学生運動を「ドイツのアナキスト」の指導するブルジョワ子弟の反革命と決めつける、後の共産党委員長マルシェの論説が掲載されていた。その若い「ドイツのアナキスト」は、ナチズムを逃れてパリに亡命してきたユダヤ人の子供の一人だ。
 パリ大学の封鎖をうけて、2万、3万の規模で繰り返される学生デモ。頻発する警官隊との衝突。10日、打ち上げに困った学生たちが「カルチェ・ラタン占拠!」を口走ったことから、ソルボンヌ周辺に六十ものバリケードが林立する。路面の舗石を積み上げ、街路樹の根を保護する鉄枠や道路標識によって覆い、さらに路上駐車してある車を横倒しにして二重三重の防御を図る。流れ出したガソリンに火をかける。インタナショナルを歌う学生たちの傍らで、加勢に出た周辺の住民たちはラ・マルセイエーズを歌う。ロシア革命とフランス二月革命の奇妙な邂逅?「こういうのは「レ・ミゼラブル」で読んだことがあるよ!」投石。モロトフ・カクテル。催涙弾。手榴弾。警棒の恐怖。通りに面したアパートのバルコニーからは催涙ガスめがけてバケツの水が降ってくる。
 パリの学生の蜂起は大学のある地方都市に次第に拡大していく。13日、全労働組合が一致して全国一斉のゼネストを呼びかけ、学生たちもこれに合流する。人民戦線かコミューンか?ちょうど10年前のこの日、ド・ゴールはアルジェ蜂起の混乱のさなかに政権に就いたのだった。パリでのデモは主催者発表八十万人。その一人にミッテランもいた。「10年、もういいぞ!」「シャルロ、金!」フランス各地で労働者による工場の占拠が広がり、数百万規模のストライキが日毎に繰り返される。21日、首都の郵便、交通、ゴミや下水の処理は完全に止まる。24日夜、パリ市街での再びの激しいバリケード闘争。今度は街路樹さえもがなぎ倒される。25日、国営ラジオ・テレビも報道の自由を求めてストライキに入る。晴天の五月に降って沸いたような突然のヴァカンス。首相の肝煎りで行われた経営者と組合の交渉の妥結を無視して、現場の労働者たちはストライキを続行する。
 様々な歴史のリズムが不意に同期して当事者の思いも及ばなかった巨大な波動を引き起こす、「68年5月」とはそのような出来事だったと思える。その巨大な波動は、月末、百万人を動員したド・ゴール派のデモと翌月の国政選挙でのド・ゴール派の大勝であっけなく終焉してしまうのだが、そのあっけなささえもが、決して国家権力の奪取などを目標とすることのなかったこの野放図な「68年5月」にふさわしいものであったかのようだ。いずれにせよ、「革命 revolution」として円環を閉じることなく、「反抗 revolte」としていわば中絶されたまま開け放たれた「68年5月」が、むしろその開けによって現在に至るその記号の神話性を獲得したことは間違いない。
 だが、68年5月を単なる記号におとしめることはできまい。68年5月は、一体何をその遺産として残しているのか?
 たとえば、ライヒやマルクーゼを引きながら盛んに論じられた「性の解放」というテーマ一つとりあげてみてもいい。かつての学生運動の発端となった大学寮には、現在男子棟、女子棟の区別はすでになく、部外者の宿泊禁止という規約も有名無実のものに過ぎない。離婚・再婚、結婚しない男女の同棲、あるいは夫婦共働きの家庭、今ではもはや「流行遅れ」でさえあるようなこれらの現象はすべて、68年以降のフランス人たちの生活様式を大きくかえた。これらの転換が、家族や社会の規範から解き放たれた5月の喧噪の中での男女の出会いの思いがけないたやすさから始まったことは、多くの人々の証言するとおりだろう。そして、中絶の合法化(75)をはじめ、七十年代以来の生活様式の転換に大きくあずかったフェミニズムの発展は、警官隊への投石とデモで出会った女たちのナンパに反抗のカタルシスを見いだしていた「前衛」=「マッチョ」のヒロイズムに対する批判を一つの端緒としていたはずだ。
 「性の解放」というテーマが、性欲の抑圧からの解放といったいささか脳天気な疎外論的枠組みを逸脱して示すこととなったのは、個人がすでに社会的な制度によって媒介され、規定されたものとしてあるという認識であり、その一つ一つの制度に対して徹底的に疑問符を突きつけていくといった態度だった。問題は「性」のみに限らない。そのことは、監視と処罰について、学校について、あるいは資本主義と欲望について、「いまここ」を成立させている制度を、「いまここ」のまっただ中から具体的に問いたずねてゆくという批評を68年以降のフランスが生み出してきたことを思い起こすだけでたりる。
 しかしそのような批評はすでに、制度の最大の危機を乗り越えた第五共和制が、ますます隠微にその権力の及ぶ範囲を広げ、私的空間と公的空間の安易な分節など不可能になるほどまで社会に浸透してゆく事態に対する必死の抵抗だったのだろう。事実、14年におよぶミッテラン政権を経て、より大衆的で身近なイメージをまといつつ現在の安定を築き上げた第五共和制のもとで、批評は次第にその場所を失っていった。そして68年5月から30年後の今、おびただしい回顧の中に再び見いだされるのは、その5月の最も良き遺産とも言うべき批評の完全な不在なのだ。反抗のもたらした開けは、いかにも凡庸な生物学的な世代の循環によってその円環を閉じたかのように見える。

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