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1980年代にフィルハーモニア管弦楽団とともにマーラーの新しい演奏解釈で世界を驚かせたジュゼッペ・シノーポリは、90年代に入ってドレスデン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ)とともにいっそう深い音楽の世界を探求してきた。去る1月の来日公演は、その成果を遺憾なく示したものと言える。実際、彼らは今やオーケストラ音楽の頂点に立ったとさえ言えるのではないか。 |
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まず、楽団が素晴らしい。ベルリン・フィルさえオートマティック仕様のベンツのように――つまりはアメリカ車と大差ないものになってしまった現在にあって、旧東独で世界最古の伝統を守ってきたドレスデン国立歌劇場管弦楽団は数少ない本格的なクラシック・カーを思わせる。時にスタートが遅かったりはするものの、いったんエンジンが暖まると、その重厚な走りは他の追随を許さないのだ。シノーポリがそれを現代の分析的な演奏の水準にまで磨き上げることで、圧倒的な厚みと解像力を兼ね備えた世界最高のオーケストラが出来上がったのである。 |
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かつてフィルハーモニア管弦楽団との演奏でセンセーションを捲き起こしたマーラーの第5交響曲も、今や比べものにならない重厚さを獲得している。第1楽章、重い鎧を引きずるように進む英雄の葬送行進曲の、グロテスクにして荘厳な表現。第3楽章、全曲の中心となるロンドの、底知れぬ重奏性――特に、華麗な盛り上がりのあと、金管の哀歌から弦のピツィカートに至る部分の深さ。そう、この楽団の弱音はウィーン・フィルにさえ求め得ないものだ。そして、あの美しい第4楽章のアダ−ジェットから直接第5楽章へと、マーラーの音楽は、その多声的な構造を十全にあらわしながら、白熱のフィナーレへ向かってゆくのだ。 |
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さらに素晴らしかったのがヴァーグナーの演奏会形式による上演である。すでに15年間にわたってバイロイト音楽祭に出演し続けているシノーポリは、この夏から新演出による<ニーベルングの指輪>を開始する予定だが、今回は前もってそれを試聴するという意味でも注目された。
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その一夜が、冒頭から思わず息を呑むほどの出来映えだったのだ。「ヴァルキューレ」の第一幕冒頭のオーケストラがこれほど見事に作曲されていることに初めて気付かされた聴衆も多いのではないかと思われる、それほどまでに雄弁な演奏。かと思うと、歌が始まる時には、その音量が知らぬ間に室内楽的な水準にまで下がっていて、歌手たちがたっぷり余裕をもって歌うことができる。またその歌手たちが、ジークムント役を歌った若手のローランド・ワーゲンフューラーをはじめ、いずれ劣らぬ素晴らしい出来映えだった。第一幕の鮮烈な幕切れで思わず「ほうっ!」と唸った、これはそれほどに見事な演奏だったのである。 |
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もちろん、後半の「神々の黄昏」の抜粋も圧倒的なものだったことは言うまでもない。特に、「ジークフリートの葬送行進曲」の恐るべき強度と厚み、そして、フィナーレで「ジークフリートの動機」が盛り上がった後ゆっくり一呼吸おいて「愛の救済の動機」が歌い上げられる、そのスケールの大きさ。聴衆の熱狂的な喝采に応えて「ジークフリートの葬送行進曲」がアンコールで演奏されたのを見ると、シノーポリにとってもそれは会心の演奏だったに違いない。 |
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バイロイトでは、臨時編成の祝祭管弦楽団を使わざるを得ず、歌手のコントロールも演奏会形式のように完璧にはいかないので、これほどの演奏を聴くことは難しい。しかし、こうしてシノーポリの成熟を確認したわれわれは、新演出の<指輪>が新しいミレニアムにふさわしいモニュメントとなるであろうことを確信している。 |
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それだけではない。シノーポリは、リヒャルト・シュトラウスのオペラにも力を入れており、最近もウィーン国立歌劇場での「影のない女」の上演でセンセーションを捲き起こしたが、この作曲家自身とも深い関係にあったドレスデン歌劇場管弦楽団を率いてザルツブルグ音楽祭で次々にオペラを上演していく計画も温めているのである。 |
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フィルハーモニア管弦楽団を離れようとしていたシノーポリが、一度決まっていたベルリン・ドイツ・オペラのポストを蹴って、ドレスデンを選んだとき、一部にはスター指揮者の凋落を予期する声もあった。だが、今になってみると、彼の選択は完全に正しかったことがわかる。文化のデパートのようになってしまったベルリンを尻目に、シノーポリは、世界最古のオーケストラを世界最高の水準に磨き上げ、バイロイトやザルツブルグでも着々と足場を固めているのだ。 |
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ベルリンを忘れよう。ウィーンを忘れよう。ヨーロッパ音楽の新ミレニアムは、古都ドレスデンを本拠とするこのイタリア人指揮者によって開かれる。 |
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