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 これは確かに熟読のための忍耐を要求する書物に違いない。中断と迂回を繰り返す叙述のリズム(ベンヤミンの言う、トラクタートの観想的叙述のリズム)がそれを強いる。ユダヤ−キリスト教神学、あるいはイスラーム神学の伝統における天使論が、リルケ、ベンヤミン、クレーの天使たちをめぐる分析と縦横に織りなされてゆく論述は、なじみのない名の連なりによって、読者をたじろがせるのに十分であろう。
 しかしこれは、言葉が表示する明白な意味内容の向こう側へと、一気に駆け抜けるべき書物でもある。そんなふうに駆け抜けることではじめて、見え隠れしては、あっという間に掠めすぎてしまいそうな「天使」のイメージを、視野の端にとらえることができるのだから。冒頭に掲げられたウォレス・スティーヴンズの詩「必要な天使」にあるように、その天使は「一瞬心が生み出す幻影、/亡霊のように儚い現われ/わたしが背を向けるだけで、/ほら、もう、消えてしまう。」この書物という鏡が映し出そうとするのは、そんな儚い束の間のイメージなのだ。それゆえに、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』同様、叙述の問題、表象の問題こそが、本書の核心をなすことになる。「天使が表象の問題を手放すことはない。」そして、表象の問題がこのように顕在化するのは、「危機」の時間においてにほかならない。
 この書物は、言うまでもなく、神学の書物でもなければ、衒学趣味的な天使学の書物でもない。それはあくまで哲学的な、天使の存在論である。リルケの恐ろしい天使から、墜ちた天使へ、そして、クレーの描くあまりにも多くの天使たち――「これらの紙葉のなかで天使はまるで恐れおののく夜の小鳥のようだ」。彼らのイメージを通じて著者が取り組もうとするのは、「必然性(アナンケ)」から束の間だけ自由になりうる、天使という儚い存在の「必要性」についてである。
 古典古代のダイモンが宿命に縛られた存在であったのに対して、天使はアナンケの法からは自由である。ただし、天使のイメージには、バビロニア起源の黄道帯(獣帯)12宮上の、星辰の魔神と化した異教のダイモンたちの名残りがいまだに混在している。そのようなイメージの残存=再生の必然性とその桎梏を脱する自由との葛藤をめぐる叙述には、両者が同時共存する象徴的イメージの両極性を主題とした、アビ・ヴァールブルクの思考の谺が聞き取れるだろう。
 本書のそこかしこに差し挟まれたクレーの天使、それは「儚くうつろう此岸の世界にあるもっとも危険な天使学の次元」に位置している、と著者は言う。「忘れっぽい天使」、「おませな天使」、「幼稚園の天使」、「欠けた天使」、「疑う天使」、「未熟な天使」、「鈴をつけた天使」――クレーは天使の名を増殖させる。しかし、そうしたさまざまな名を一挙に体現する形象がある。「新しい天使」のそれだ。幼児(インファンス――言葉なき者)に似たこの新しい天使は、「かすかなメシア的力」を表象する。そして、挫折を繰り返す脆弱なメシア的救済の時間、天使の時間とは、一様な時の流れを切断して現われる突然の亀裂、この限りなく唐突な瞬間(いま=とき)にほかならない。
 こうした論旨は、1980年代半ばというほぼ同じ時期に出版された著者の『法のイコン』や『クロノスなき時間』といった著作の議論と密接に関連している。そのいずれにおいても、哲学的であると同時に或る意味でイコノロジー的な方法によって、必然性と自由、一様なクロノス的時間とそれを断ち切る「クロノスなき」瞬間をめぐる問題が、執拗に追究されているのである。著者にとって、「天使」はこうした思考の歩みに絶えず連れ添う伴侶であった。ベンヤミンのアイディアをもとに、非常に若くして著者の創刊した雑誌が『新しい天使』だったことを思えば、この伴侶は思想家としての彼がつねに必要とした存在だったとさえ言えるだろう。
 クロノス的な時の進行を切断する瞬間とは「決断」の時間にほかならない。天使は、完全な明晰さのもとに下される、究極的な決断の原型を与えている。しかし、天使の自由はただ一瞬のみのものであり、その自由に基づく決断によって、堕天使つまり悪魔と、幸福な天使たちとの分離が永遠に決定されてしまう。その決定ののち、天使はすでに逃れようのない必然性に完全に支配されてしまうように見える。そして、生成し変容する時間のなかで決断という冒険を繰り返す人間もまた、最後の審判という終末の時点にいたれば、同じ必然性に組み込まれてゆくことになる。――必然性と自由をめぐる著者の思考はこうして、終末論の再検討を余儀なくされる。
 終末における仮借なき審判の思想は、来臨による救済という観念と矛盾する。刑事法的概念に支えられた審判の黙示的ヴィジョンは、恩寵を法的次元に従属させてしまうのである。こうした傾向に対する強力な反論として、「アポカタスタシス(帰還)」の観念が生まれた。それによれば、あらゆる人間のみならず、堕天使である悪魔さえもがついには、善へと「帰還」するというのだ。
 しかし、著者は終末論が唱えるこのような帰還がなぜ可能なのかを厳密に問い直し、堕天使の自由という問題によって、その展望が挫折せざるをえないことを導き出す。最後の審判における法の支配は「アポカタスタシス」の思想によって粉砕されるが、同時に、完全な「帰還」が可能であるためには、堕天使の自由が排除されなければならない。法的必然性に対する反論として登場した「アポカタスタシス」の思想が、再びあらたな必然性にいたり着いてしまうのである。終末論は自由と必然をめぐるこうした矛盾のうちにあり、この矛盾を通してこそ思考されなければならない、と著者は言う。それこそが「この宗教の根本的に非=宗教的な徴」なのである。約束された救済にたどり着ける確実な道など存在しない。救済の真実は、法学的に定義することはできず、一義的な意味へと合理化されることもまたありえない。必然と自由の二律背反をともに体現する天使には、こうした救済の矛盾、そしてそれと対称的な創造の矛盾が、「ポリフォニックに」現われている。
 終末論神学の脱構築、と言うべきだろうか。天使の「決断」をめぐる著者の思考はここで、政治的決断に関するカール・シュミットの「政治神学」に接近している。ベンヤミンがドイツ・バロック演劇論にそれを導入したように、本書では天使論が、「決断」の自由と必然性とが闘いを繰り広げる舞台になっているのだ。この書物は、神学的議論が同時に「政治的なもの」をめぐる議論にもなりうるという、こうした二重性において読まれなければならない。
 この地上において、天使的決断の決然とした相貌を備えている被造物とは動物にほかならない。天使と動物はともに、言葉をもたない幼年期にある。この幼年期のなかで、リルケの天使がフランツ・マルクの描く動物たちと出会う。彼らの星座が交差するところに、ベンヤミンの新しい天使の姿が浮かび上がる。これらの言葉なきものたちへと向けて、わたしたちは語る。天使が表象する「どこにもない場所」、救済の場所としての不可視へと向けて。そのとき、天使の言葉とはコミュニケーションに刻み込まれた裂け目、あくまでも肯定的な不在にほかならない。その裂け目の瞬間に風が吹く。その風こそが天使なのだ。風の吹き抜けるパサージュ、吹き抜ける風が作り出すパサージュ――天使とはそんな通路である。言葉から言葉によって言い尽くせぬものへの通路。イメージにおいて、多数性のなかに現われつつ隠れ、近づきつつ逃れるものへの通路。ポリフォニックな象徴の、不可視を孕んだ複合体。「ない」ものとしての天使のこの裸の存在。だから、この書物のなかに読まれるべきものは「ない」。言い換えれば、この「ない」という不在そのものが読まれなければならない。それはさまざまな名の狭間に訪れる不可視の瞬間、そこに流れ来ては去る大気のそよぎである。
 本書は、アルバン・ベルクのヴァイオリン・コンチェルト《或る天使の思い出に》の旋律とともに、神の前で一瞬讃歌を歌っては無のなかへと消え失せてゆく天使たちへのノスタルジー、そして、必然的に繰り返されるその死に捧げられた哀悼によって閉ざされる。著者の思考の運動に付き添ってきた読者はそのとき、本書の随所でかすかな天使の息吹に触れたことを思い出すだろう。この書物を読むことで、わたしたちはそんな息吹に対する感覚を著しく研ぎ澄まされる。本書が与えるのは単なる天使学の情報や使い勝手のよい知的ツールでもなければ、世界認識のためのパラダイムでもない。しかし、そこで束の間遭遇した儚いイメージこそが、ありえないはずの(しかし「必要な」)救済の希望となっていることに驚く。ここでは言葉は明示的な意味内容の伝達にとどまるのではなく、過去からの沈黙の谺を幾重にも響き渡らせ、生成する未来の意味をすでに孕んで告げている。やがて「天使」の形象に代わって「群島」が、「決断」に代わって「大地のノモス」が主題として前景に立ち現われるとき、未来へと向けた「ヨーロッパ」の「想起」という巨大な課題がそこに掲げられることになるだろう。
 困難であったことが想像される翻訳を見事に完成させた訳者には、この稀有な著作を日本語で読めるものとしてくれたその労苦に対して、賛辞と感謝を捧げたいと思う。岡田温司氏による解説も、本格的な紹介が日本語でなされていない著者の思想の輪郭を知るうえで非常に有益である。著者マッシモ・カッチャーリ氏の来日と時を同じくして本書が刊行されることを喜びつつ、この反時代的な書物が秘めているアクチュアリティーの起爆力が、日本の多くの読者に、真に危機的な時間における天使との遭遇をもたらすことを願ってやまない。

⇒ イヴェント情報
21世紀「ヨーロッパ」の理念:政治思想の未来――マッシモ・カッチャーリ氏を迎えて
⇒ 著書情報
マッシモ・カッチャーリ著『必要なる天使』(柱本元彦訳/岡田温司解説、人文書院)
Before- & Afterimages: TANAKA Jun's Site

【編集部付記】
 上文は2002年3月25日にweb critique に御寄稿頂いたマッシモ・カッチャーリ氏の著作への書評ですが、批評空間第III期4号の刊行にあたり、関連論考として改めて新着原稿の欄に掲載させていただきます。御許可下さった著者の田中純氏に記して感謝します。

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