批評空間アーカイヴ

大澤真幸【試練にさらされる「責任」概念】
 大阪教育大付属池田小学校で起きた児童殺傷事件の詳細は、未だよくわからない。いずれにせよ、この事件についての判断の焦点は、容疑者の責任能力の有無であろう。
 これはど悲劇的な事件であることを思うと、容疑者に責任能力を認め、厳罰に処するのでない限り、われわれが、そして何より遺族が被った精神的な傷は、癒されまい。だが、容疑者が精神病による心神喪失でも心神耗弱でもないとして、彼に刑罰を科した場合に、われわれの精神的打撃は解消されるだろうか。その場合でも、当初の打撃にちょうど匹敵する深さの不安にわれわれは苛まれるだろう。善悪をわきまえている者がなぜあれほどの残虐行為をなしえたのか、という不安に、である。
 ここでわれわれを苦しめているのは、行為と知のねじれた関係である。たとえば、オイディプスが、父殺しのようなおぞましい行為を平気でなしえたのは、彼が何も知らなかったからである。逆に、ハムレットが、王である叔父の殺害をためらい、なかなか実行に移せないのは、彼がその由々しき意味をよく知っていたからである。もし容疑者が心神喪失状態にあれぼ、彼は行為の意味をよく知らないという意味で、オイディプスと同じ状況にあったことになる。逆に、責任能力がある犯罪について、われわれが普通想定しているのは、ハムレットのような犯罪者である。だが、今回のケースは、――もし容疑者に責任能力があると仮定すれば――、このいずれとも異なる。容疑者は、ハムレットのように知りつつ、オイディプスのように行為していることになるからだ。だが、その重い意味を知りながら、平然と行為するなどということが、いかにして可能なのか。
 こうした問いを通じて、この事件が俎上に載せているのは、現代社会における責任概念の有効性である。容疑者の責任能力を否定した場合に、あれほどの犯罪の責任が消え去ってしまうのは無論だが、逆に、責任能力を認めた場合にも、責任概念は試練にさらされる。善悪についての知と残虐行為の間の極端な矛盾が、責任という概念を虚しいものにしてしまうからだ。要するに、容疑者は責任の片鱗すらも自覚していないように見えてしまうからだ。
 実は、「リスク社会」と呼ばれる現代社会には、一般に、責任概念の効力を侵食してしまう、強い傾向性がある。この度の殺傷事件は、そうした傾向性を増幅して映し出す鏡になっているのだ。責任概念の危機にどう対処すればよいのか。
 まず理解すべきことは、責任概念は、ある根本的な「不可能性」、ある深い逆説をこそ基礎にして機能しているということだ。たとえば、現在の日本人に、何らかの意味での戦争責任があるとしよう。このような立場を支持することは、大半の日本人にとって、自らに原因がないことの責任を引き受けることを意味するだろう。無論、戦争責任については、意見も分かれよう。だが、さらに進んで、次のような場合はどうか。ある犯罪者の犯罪行為の起源に、彼(女)が幼児期に受けた虐待があると証明されてしまったと仮定してみるのだ。もし原因と見なせない者に責任がないとすれば、こうしたケースでは、責任が失われてしまう。だが、それでも、われわれは、この犯罪者に行為の責任を帰すべきではないか。
 そうであるとすれば、責任とは、自らが原因ではありえない出来事に関して(も)、さながら自らが原因であったかのように自己帰属させることを含意しているはずである。つまり、あえて極論すれば、(原因という意味での)責任を担えないことに関して、責任を担うことができなければ、責任概念は一般的に失われてしまうのである。
 同じ逆説は、責任追及の反面でもある赦しに関しても認められる。ジャック・デリダがインタビューの中で述べていることだが、もし真に赦すべきものがあるとすれば、それは、赦しえないもののみである。つまり、赦しが可能であるとすれば、ただ赦しえないものを赦すことができる場合のみなのだ。
 人は、犯罪者の改悛の言葉を聞きたがる。本当に赦しを乞うならば赦しを与えよう、というわけだ。だが、罪人が罪を認め、罪人以上の者に――「善人」に――変質してしまった後の赦しなど、赦しと言えるだろうか。改懐によって善人になった者を赦す――もはやあなたは罪人ではないと伝える――ことは、客観的な事態の認識であって、真の赦しではない。ここには、赦しがもつべき倫理的決断の契機はまったくない。赦しがあるとすれば、それは、相手が赦しえない罪人であるとの――したがって犯罪行為の原因であり続けているとの――認定を保持しつつ、なされなくてはならない。
 だから、責任の逆説に対応した赦しの逆説がある。責任は、原因がないところに、それがあるかのように想定する態度の中に現れる。逆に、赦しは、原因(罪人)があると知りつつ、それがないかのように見なす決断である。両者はともに、因果関係に抗する形で構成される。責任を認めることと赦すこととは、方向こそ対立的だが、ともに「因果関係の認識」の見地からすると不条理な倫理的決断であり、因果関係を超克する志向性を共有しているのだ。
 つまり、責任を可能なものとしている契機と、赦しを可能なものにしている条件は、同じ逆説である。だから責任が可能なのは、われわれが、「絶対に赦しえない」という認識を保ったまま、それを赦すことができる場合である。赦しが因果関係を乗り越えるその同じやり方だけが、責任という感覚をも生み出すことができるからだ。犯罪者を心神喪失と見なして、責任概念の守備範囲から放逐するのでもなければ、責任能力を認定した上で断罪するのとも異なる、第三の道がここにはないだろうか。
 だが、同時に気をつけねばならない。われわれは、今回の悲惨な事件に関して、犯罪者を「赦す」と軽々に発すべきではない(それゆえまた当たり前のように糾弾すべきでもない)。「われわれ」にはその資格がないからだ。赦すことができるのは、また責めることができるのは、犠牲者、今や不在の死者――あるいはせいぜいそれに直接に連なる遺族や親友――のみである。ここに、責任と赦しが拠って立つ、もうひとつの困難、もうひとつの不可能性がある。われわれはいかにして犠牲者を代理しうるのかという問題が、である。
 だから、この度の殺傷事件は、何重もの意味において、責任概念が生き延びることができるかを試す試金石となっているのだ。

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