 |
1997年7月1日、トニ・ネグリはイタリアに帰国する。ローマの空港に到着するとともに逮捕、そのまま同市レビッビア刑務所に収監される。半年後の現在、ネグリはなおその刑務所の独房に留まっているはずだ。 |
|
最初にネグリが逮捕されたのは、1979年4月7日、パドヴァでのことだ。罪状は「国家権力に対する武装反逆」――ファシスト政権下に制定された法規による。ネグリは、彼自身が中心人物の一人であった大衆運動「アウトノミア・オペライア」(労働者の自律)と、キリスト教民主党党首モーロ暗殺を行ったテロリスト・グループ「赤い旅団」を統括する地下組織の総責任者と断定された。その後イタリア各地の裁判所で、ネグリに対する訴訟が続けられて行く。当時のイタリアでは、共産党とキリスト教民主党との歴史的和解(74)ののち、60年代末から激化していた社会運動が行先を失ったまま、絶望的なテロリスムを生み出していた。当初極左集団によるものとされた爆弾テロが、秘密警察に教唆されたネオ・ファシストによるものであったこともまた、現在ではよく知られている。「転向者」の証言による告発、その告発者の行方不明、四年半もの未決拘禁、被告を法廷に呼び出すことなく続けられた裁判――その「非常事態」下でのネグリの裁判をめぐるこれらの事実は、極左運動の思想的シンボルであった彼に向けられた訴追が、政治的判断から強引に組織されたことを物語っている。その後、「赤い旅団」の組織者をはじめとして彼にかけられた嫌疑のほとんどは取り下げられ、あるいは棄却されるが、「武装反逆」と警官一人の死者を出した運動の組織者としての「道義的責任」によって彼は実刑判決を受ける。係争中の裁判をのぞけば、刑期は残り四年あまりだという。 |
|
1983年、ラディカル党から国政選挙に立候補したネグリは、未決拘禁中の身にもかかわらず代議士に選出され、非逮捕特権を行使して刑務所から出ると、彼の再逮捕を議会が六票差の表決で許可する前にフランスに政治亡命を求めた。こうして14年間に及ぶフランスでの生活が始まる。パリで、ドゥルーズやガタリとの交友、フーコーとの対質、スピノザを巡るアルチュセリアンとの議論などから多くを吸収しつつも、社会運動に対する旺盛な関心を決して失うことなく持ち続けたネグリは、フランスの友人たちの仕事を撹乱し、交配し、実践的な政治の問題へむけて開いていく、他に類のない存在だった。 |
|
今回のネグリのイタリアへの帰国は、本人の自発的な、おそらくは突然の決断による。中道左派連立政権のもとで「第二共和制」への移行を議論している現在のイタリアが、なお約200名の政治犯と約180名の政治亡命者を持つことを喚起し、政治犯の解放と亡命者の身分の保障を図りたい、そしてテロリスムへと暴走したかつての極左主義をのりこえて社会運動の再編成をイタリアで模索したい、それがネグリの希望のようだ。フランスを中心に、ネグリ及び同様の政治犯の自由を求める大規模な請願運動が展開されているが、事態はそれほど楽観できるものではない。 |
|
ネグリは近著『構成的権力』のなかで、国家の「構成された権力」に対して、その手前に、「多数性」そのものの中に留まる「構成する力」がある、そう語っていた。「第二の自然」としてたえまなく自己を創りかえていくその「力」にはどこまでも果てがない。「千の高原、それだけでなく、千の方向、千の網、千の変数。」この果てしなさのうちに、政治哲学者ネグリの魅力と危険がともにあるだろう。国家による上からの媒介を排して、「多数であること」に内在する奔放な連携のありさまをいかに描き出すか−ぎっしりと書物の詰まった狭い独房の中で、ネグリはその仕事にとりかかるらしい。読書と執筆に集中するために、日中開放されている独房の扉を、彼はみずから閉じることもあるということだ。 |