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「したがってここでは、私は反復し、要約する。」−キルケゴールにしたがって『反復』と題されたアラン・ロブ-グリエの「新しい小説」は、その冒頭の一文から、過去五十年にわたって書き継がれてきた彼の小説世界の只中に読者を誘い込む。「ヌーヴォーロマン」の作家として愚直なまでに「前衛性」を求めてきたロブ-グリエも、『回帰する鏡』をはじめとする自伝的作品を経て、老大家にありがちな自己反復に行き着いてしまったということだろうか。 |
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『反復』のなかで、「スパイ」としてフランスから東西「分裂」直後のベルリンへ送り込まれた「旅人」は、すでにその列車の車中から自身の「分身」と遭遇する。五日間の覚醒と睡眠(「夢か現か」)を辿る物語にそって、まず主人公は東ベルリンで謎めいた「殺人事件」に居合わせたあと、西ベルリンで「双児」の「スパイ」が経営する宿屋に到着する。無論、その宿屋は随所に「鏡」を張り巡らされ、長い廊下を持った「迷宮」であり、実は「美少女」たちを「サドマゾ」の儀式に供する淫猥な場所なのだ。そこで、主人公は自分の「母」の「分身」のような、殺人の被害者と目される人物の若く美しい妻(彼女は「ジョ・カスト」あるいは「イオ」=「私」と呼ばれる)と出会い、彼女と同衾する。こうして俄然「エディプス」神話のヴァリアントの様相を呈した物語は、幼くして別れた「双児」の兄弟(ワルターとマルクス、WとM)が「スパイ」として再会し、義母と義理の妹の性器をめぐって父と自らの分身に対決する、「息子=男」としての正統性を賭けた命懸けの闘争を語ることになるだろう。 |
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これらすべてがロブ-グリエの読者にとっては馴染み深い「アイテム」である。そもそも、Henri Robin(HR)、Wallon、Wall、MarcusそしてWaltherと変遷する主人公の名前自体がかつての旧作の登場人物達に目配せしている。だが、ロブ-グリエの関心はそれら個々の参照にはなく、やはり、いかにして語るか、そして「エディプス神話」といった原形的な物語をいかにして脱構築するか、の話法の探究の側にある。そもそも『反復』にあらわれる「母」は、最初から義理の、虚構の母にすぎないではないか。あるいはサドマゾ的な欲望の対象としてあらわれる妹は、義理の妹とはいえ、その父親が「双児」どちらかの兄であるかもしれないことも示唆されている。さらには、死んだはずの人物がかならず一度は生き返る『反復』の世界の中では、「父殺し」や「命懸けの闘争」といった生死を賭けた一回的な悲劇さえ、喜劇として必ず二度繰り返されることになるのだ。 |
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小説の本文はまず一人称の語りによって始められ、ついで三人称の語りによって語り直される。その本文の内部には突然の横滑りによって、一九九九年の年末の嵐の中で精魂込めて育ててきた森を一時にして失った、廃墟の中のロブ-グリエと思しき書き手の「私」が闖入し、ただでさえあやしげな語り手の同一性を一層不確かなものとする。さらにその本文は、冒頭から注のかたちで挿入された一群のテクストによって訂正され、注解され、異議を申し立てられ、最終的には数十ページにわたって侵食されてしまう。通常なら本文の正統性の支えとして機能するはずの注が、『反復』のなかでは本文の語りに対して敵意を露にするのだ。その対抗的な語りは、結果的に本文の語り手のライヴァルであるヴァルターが、自分の犯罪を語り手のマルクスに押し付けるためにデッチ上げた「騙り」として処理されるように見える。しかし、終幕において、語りの真偽と語り手の善悪を峻別するべく現れたかのような刑事の語り自体がサドマゾと少女嗜愛の淫猥な饒舌へと脱線していくのであれば、語りの正統性を保証する最終的な準拠枠は結局どこにも見出せないのだ。最後のパラグラフにいたっても、義理の妹とともにハネムーン旅行に旅立つ「私」が、ヴァルターを騙るマルクスなのか、ヴァルターを騙るマルクスを騙るヴァルターなのかは明らかにされることはない。そして、相互に否定しあうこの複数の語りの交錯をつうじて、ただ無定形の性欲だけが確実なものとして残るのである。 |
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自らを正統として位置付ける語りを廃墟に追い込みつつ、同時に語り=騙りをその廃墟において保持すること。ロブ-グリエの『反復』は、まさにその身ぶりにおいて自らの過去の作品の試みの「反復」と「要約」としてある。この作品が持つ既視感自体が、旧作の試みを反復することによって語り=騙りの廃墟と保存とをさらに増幅しながら、なお一つの新しい小説を提出しようとした小説家の求めたものなのだ。自らを『反復』と名指すこの小説は、決して分かりやすい「新しさ」を前衛的な意匠のもとに提示することはない。だが、その分かりやすい「前衛性」の放棄によって、小説家は古いものと新しいものの間の位階を揺るがせ、既視感そのものを不安定な新しさとして機能させている。八十をこえて老いてますます盛んなロブ-グリエの新作を読みながら、私はこの新しい小説を、すっかり老大家の風格を帯びてしまっているかつての「ヌーヴォーロマン」の日本への紹介者達に翻訳してもらいたいものだ、という願いを抱かずにはいられなかった。むろん、その『反復』の日本語での反復のためには、オリジナルの本文と注を侵食する膨大な訳注が付されるべきであることは、私がとりたてて言うまでもない。 |
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