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ある声が欠けていた。たった一つの声が。かつて左翼のものであったはずの声、たしかにこれほど拡散してはおらず(わけても、これほど滑稽な形で拡散してはいなかった!)、いずれにせよ政治的左翼のものであった声が。選挙戦がこれほどどうしようもないものであったのは、それが政治的なものではなかったからである。選挙戦が政治的なものでなかったのは、政治という審級が忘れ去られることに左右両翼がどちらも同意したからである。このことにどちらもが同意したのは、信用を失墜し、経済に敗北したと見なされているこの「政治」を新たに思考することの緊急性に気がつかなかったからである。欠けていた声とは、思想の声であった。社会党はインテリの党たることをやめねばならなかったなどとあちこちで言われている。インテリとは言うまでもなくサロン文化人のことだが、思想の仕事は何らインテリ的なものではない。社会党は思想を欠いていたのであり、したがって政治の声を欠いていたのである。 |
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政治とは、国家を手中に収め支配する党の戦略でもなければ、国民の運命に関する壮大なヴィジョンでもない。政治は、共同実存の「全体」という点に位置している。ここで言う全体とは、全体化する全体ではなく、ある意味で空虚な点である全体のことにほかならない(これは民主主義に固有の特徴である。ミシュレはおおよそ次のようなことを言っていた。民主主義の唯一のモニュメントは、そこに人々が集うことのできる空虚な広場でなければならない、と)。だが、この点について言えば、政治は、この全体化なき全体の統一性に名を与え、あるいはむしろフレーズを紡いでいる。ある調子、ある姿勢、ある声を与えている。 |
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たとえば政治は、様々な声をもつこれほど多くの文化が寄り集まった国として「フランス」が意味しうるものに声を与えられるかもしれない。あるいはまた自由貿易圏以外に「ヨーロッパ」が意味しうるものに声を与えられるかもしれない。あるいは一般化し深刻さを増す搾取以外に「世界」が意味しうるものに声を与えられるかもしれない。ここにいること、ここで生きること、フランスで、ヨーロッパで、世界で、今ここで生きることが意味しうるものに声を与えること。政治家であること、それはそれらのためにある声を見つけ出すことである。まさにこれこそ忘れ去られていたことである。そしてまさにそれゆえに「ここは私たちの住む所なのに」という不機嫌で猥雑な声が飛び出してくるのである。「私たち」は類い稀なる神聖な国民であり、ヨーロッパとしてでも世界としてでもなく、ただジャンヌ・ダルク(もちろんゴール人でも構わない)のフランスとしてしか規定されないのだと、この声は言いたいらしい。 |
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政治の声が口を閉ざす時に、ファシストといわれる声が聞こえてくるのは驚くべきことではない。というのもファシズムは、政治の裏面=失墜を代表=表象しているからである。すなわち、本来人々の、それも「真正な」諸主体のではなく、現実の人々の出会いに資するべき開かれた空間を、「真正な国民」という分厚い実体の幻想で満たすこと。 |
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政治の声の沈黙は、誰か特定の人物に帰されるべき過ちといったものではない。それは、すでに遠くからやって来た出来事なのであり、私たちはとりわけ失われた様々な声を再び見出そうとしたりしてはならない。ある声を見つけ出さねばならない、今ここで、私たちのものに他ならないある調子とあるフレージング、様々な調子、様々な訛り、様々な響き、様々なリズムを発明せねばならない。我々が新たな、未聞の様々な声に再び耳を開くためには、おそらくあの騒々しい雷鳴が必要であったのだ。
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だが今のところは、この差し迫った緊急事態にあって、この声、私たちのものである声は、少なくとも一つの叫びを聞かせることができる。この声は、反政治的な声を覆い尽くし、聴き取れないほどにすることができるし、そうせねばならない。国民戦線に反対する票を投ずることは、何か別のものないし誰か別の人物のために票を投ずるということではない。国民戦線に反対する票を投ずることで、私たちは政治的な声を、私たちの声としての政治を、怒号に抗して聞かせるのである。
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<訳者付記:藤田尚志 >> 解題>
ここに訳出したテクストは、4月27日、ジャン=リュック・ナンシーからその友人百名ほど(バリバール、バディウ、クルティーヌ、スティグレール、カンブシュネールら主にフランスの哲学者が対象だが、アガンベンや西谷修なども含まれている)に宛てて、メール(「ある哲学者からその友たちへ」という題が付されていた)への添付ファイルの形で送られた
Jean-Luc Nancy, ≪La voix qui a manque, celle qui doit parler.≫の全訳である*[1]。
公開に関してはナンシーの許可を得ていることをお断りしておく。訳文に関して助言を頂いた王寺賢太氏に感謝する。 |
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<訳語について三点> |
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1)ここでひとまず「声」と訳したフランス語のvoixには、絶えず「票、投票(権)」すなわち「有権者の声」というもう一つの意味を聴き取っておく必要がある。 |
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2)「ジャンヌ・ダルクのフランス」と言われているのは、このオルレアンの乙女がルペン国民戦線にとって象徴的な存在だからである。 |
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3)文中に出てくる「雷鳴」(coup de tonnerre)は、選挙結果に関するジョスパンの談話で用いられた比喩である(「開票速報が正しいのだとすれば、この大統領選挙第一回投票の出されたばかりの結果は、雷鳴のようなものです。極右が我が国の声=票[有権者]の20%を代表し、その主要候補[ルペン]が右派の主要候補[シラク]と第二回投票で対決するという事態は、フランスと私たちのデモクラシーにとって非常に不安な徴候です」)。 |
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※ このテクストには以下レスポンスが付いています。
△ 欠けていた声、それこそが声をあげねばならない
/ジャン=リュック・ナンシー(2002/05/11)
▼ 欠けていた声、それこそが声をあげねばならない・解題/藤田尚志(2002/05/11)
▼ 三回の投票を巡る考察/エティエンヌ・バリバール(2002/05/25)
▼ 緊急の声、緊急の応答/西山達也(2002/05/27)
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