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さる4月21日に行なわれたフランス大統領選挙の第一回投票で、大方の予想を覆して、ジャック・シラク現大統領(保守政党「共和国連合」)の得票率19.88%に次いで、極右政党「国民戦線」党首のジャン=マリー・ルペンが16.86%を獲得し、僅差ながらリオネル・ジョスパン現首相(社会党)を上回り、二位に立った。フランスの大統領選挙では、第一回投票で単独過半数を得た候補者がいない場合、上位二人の候補者によって第二回投票が行われるので、シラクと決選投票に臨むことが確実と見られていたリオネル・ジョスパン現首相(社会党)は、こうしてあえなく第一回投票で姿を消すことになった。仏内務省の発表した最終確定結果によれば、二位ルペンと三位ジョスパンの差は%で言えばわずか0.68%だが、票にして実に19万4558票であり、5年間左派連立政権を維持してきた現首相が、過激な発言が売り物の極右候補(選挙キャンペーン中は「羊のようにおとなしかった」としても)に19万人以上の差で敗れるという事態はやはり衝撃的だと言っていい*[1]。 |
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ルペンの「躍進」は、今のところおおよそ次のように説明されている。すなわち、第五共和制史上最多の16候補が乱立する状況下で争点がぼやけやすい下地ができ、シラク・ジョスパン主要二候補の政策にあまり違いがなく選挙自体への国民の関心が低かったところへ、投票日が学校の春休みにあたっていたことが重なって、棄権率が過去最高の28.4%にのぼった結果、浮動票が決定的な重要性をもつことになった。マスメディアに影響されやすい層でもある彼らは、シラクが言い募りジョスパンが仕方なく応戦した「治安悪化」のテーマが選挙前に延々とかつ大々的に報じられ続けた結果、この問題とそれに対する政府の対応の無力さを過剰に意識することになり、汚職・裏金など醜聞の絶えない左右大政党への「抗議の意を込めて」ルペンに投票した、と。 |
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過去最高を記録した棄権率の真の要因が何であれ(むろん複合的なものであろう)、またルペンへの投票が「抗議の意を込めた」だけの一過性のものであれ、極右の着実な浸透を示すものであれ、事の真相は5月5日に行われる第二回投票の結果が明らかにしてくれることだろう――シラクが大勝することによってでは無論なく、ルペンが大敗しながらもどの程度の票を獲得し続けるのかによって(追記を参照)。反政治的な呟きによってではなく、そうまさしく声=票によって。 |
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これらの動き――グローバリゼーションがもたらす貧富の差の拡大、それに伴って移民の大量流入が引き起こす(とされる)治安の悪化、そしてそれを契機とする極右の台頭、と同時に、少なくとも68年以後に限って見れば不可逆的に進行している政治不信と、その結果としての棄権率の上昇――をどう考えるべきか。ナンシーの文脈に沿って言えば、今年二月に刊行された『世界の創造、あるいはグローバリゼーション』と共に、『無為の共同体』で提起された共同体の問題から『単独複数存在』における「共に-ある」etre-avec
に至るまでの議論を(昨年刊行された『対立の共同体』における「共同体」という表現への回帰も含めて)辿りなおすことが重要であることは言うまでもないが、ここで紹介した「声=票」に関する小さなテクストを、暴力的な解釈であることは十分承知したうえで、ナンシーの解釈学に関する著作である『声の分有』へと接続することもまったく意味のないことではないかもしれない。たしかに、「分有」という概念がその後のナンシーの諸著作において十二分に展開されていくのに比べれば、もう一つのキーワードたるべき「声」のほうはその後、やや放置(放棄ではないにしても)された観がある。だが、「諸々の特異的な声の差異」「複数的で間接的な声」についての議論を政治的な文脈において読み替えることができるなら、左翼・右翼の区分あるいは政党という範疇に疑義が唱えられもする現状にあって、≪「政治」を新たに思考することの緊急性≫に幾ばくか応えることができるかもしれない。(5月1日) |
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追記:
5月5日に行なわれた決選投票では、予想通りシラクが大差でルペンを破った。第一回投票を一位で通過した候補としては第五共和制史上最低の得票率であったシラクが、第二回決選投票で史上最高の得票率を獲得したという事実は、決戦投票の争点が極右への賛否を問うレフェランダムにほかならなかったことを物語っている(投票率が79・71%と、第一回投票の71・60%を上回ったことも喧伝されているが、長期的な低下傾向を覆すものではない)。だが、あれほどの反極右キャンペーンが繰り広げられた後でなお、「抗議の意味を込めた」だけであったはずのルペンへの投票が、減少することなく第一回投票での極右二候補の合計得票に相当する約五百五十万票を維持したということの意味はやはり見逃しえない。「彼の提案する『解決策』がどれほど常軌を逸した、危険で下劣なものであろうと、ルペンの言説と影響力が、フランスの社会と国家の≪現実の諸々の問題の徴候≫としてある」(バリバール)*[2]
のである。 |
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今回のフランス大統領選挙での極右の「躍進」を報じるに際して、日本の右翼マスコミに相も変らぬ「解釈」があらわれてきたことに今さら驚く必要はない。曰く「犯罪の温床は外国人(移民)だが、警察は“外国人排斥”“人種差別”といった非難をおそれて取り締まりができない。極右はそういう共和国の“死角”をつき、現状への不満票を集めて大衆の心をつかんだ。極右の台頭を許したのは治安悪化と不法移民だった。(…)移民の増加は「自由、平等、博愛」の共和国の価値観を脅かし、一体性を損なうのではないか。(…)フランスだけの問題にとどまるだろうか。」(産経抄、5月7日)。 |
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このような言辞を弄する者たちは、フランス国民戦線が我が国の入国制限の姿勢*[3]
を「手本」と褒め称えていることを知っているのであろうか。「日本とスイスの国籍法は完全にわれわれの考えと一致する。われわれが人種的な偏見を持っていると指摘されるのはおかしい」「わが党が極右なら、日本だってそういうことになる。極右という呼び方は不当だ」(朝日新聞、4月29日)。日本に極右が台頭する心配はない。我々はすでにしてルペンも羨む極右の国に住んでいるのだ。(5月8日) |
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※ このテクストには以下レスポンスが付いています。
▼ 欠けていた声、それこそが声をあげねばならない
/ジャン=リュック・ナンシー(2002/05/11)
△ 欠けていた声、それこそが声をあげねばならない・解題/藤田尚志(2002/05/11)
▼ 三回の投票を巡る考察/エティエンヌ・バリバール(2002/05/25)
▼ 緊急の声、緊急の応答/西山達也(2002/05/27)
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