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幕を閉じたばかりの20世紀の歴史を振り返ってみれば、それを大きく三つの時期に分けることができるだろう。最初の45年間が二度の世界大戦を頂点とする歴史の激動の時代、次の45年間が冷戦の下での歴史の宙吊りの時代、そして最後の10年間が歴史の激動が再開された時代というわけだ。しかし、45年間にわたって冷戦という名の欺瞞的な平和を生きてきたわれわれは、90年代になってもなかなか歴史的な現実感覚を取り戻すことができず、真の世界平和に向かう道の端緒さえつかめずに20世紀最後の10年間を空費してしまったのである。その延長上で21世紀を迎えたいま、われわれに――とくに若い世代の人々に何よりも求められているのは、ふたたび歴史の激動に目を開き、そこに実践的にかかわってゆくための知識と判断力を取り戻すことにほかならない。 |
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そのために、われわれは何度でも歴史を振り返ってみる必要がある。とくに、冷戦の時代は、グローバルに見れば欺瞞的な平和の時代であったと同時に、ローカルに見れば数々の局地戦争が戦われた時代でもあった。日本の隣国で起こった朝鮮戦争。数次にわたる中東戦争。そして、ヴェトナム戦争もまたけっして忘れることのできない出来事である。 |
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ヴェトナムは、かつてはフランスに、第二次世界大戦中は日本に支配されていたが、30年代のインドシナ共産党党首時代から独立闘争を指導してきたホー・チ・ミンの下で、戦後ふたたび侵略を開始したフランスと戦い、54年にはディエンビエンフーで決定的な勝利を収める。だが、フランスの背後にいた資本主義圏の盟主アメリカは、ヴェトナムが共産主義政権の下で統一されれば隣国にも革命の波が及んでゆくだろうと危惧する(いわゆる「ドミノ理論」)。54年のジュネーヴ条約でヴェトナムは北緯17度線によって南北に分断され、「南」にはアメリカの傀儡政権が樹立される。そして、条約には二年以内の再統一が謳われていたにもかかわらず、アメリカは「北」が「南」の反政府勢力(60年に南ヴェトナム解放民族戦線として統一される)を不当に支援していると主張し、60年代に入ると「南」の政府軍を支援すると称して「特殊戦争」を開始、65年には「北」への空爆を開始して本格的な「局地戦争」へとのめり込んでゆくのである。だが、「北」と「解放戦線」は粘り強いゲリラ戦を展開し、アメリカの圧倒的な物量作戦(爆弾の量だけとってみても第二次世界大戦でアメリカの投下した爆弾総量の三倍に及ぶ!)にも屈することがなかった。むしろ、アメリカは悪あがきを繰り返しながらじりじりと追い詰められる。そして、75年にはついに「南」の政権が崩壊し、アメリカが追い出されて、「北」がヴェトナムの統一を成し遂げることになるのである。これは、植民地主義の負の遺産が冷戦の下で火を噴いた典型的な局地戦争として、そして、人民の粘り強い抵抗が帝国主義の物量作戦に打ち克った偉大な勝利として、長く記憶されることになるだろう*[1]。 |
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67〜68年頃にピークを迎えるこのヴェトナム戦争は、TVで伝えられた初めての戦争だったこともあって、世界中に反戦運動の嵐を巻き起こし*[2]、それは当時の反体制運動の主要な流れのひとつとして大きな盛り上がりを見せた。68年には、ケネディから戦争を引き継いだジョンソンがついに大統領選挙への出馬を断念したほどである(もちろん同年のいわゆる「テト攻勢」で軍事的敗北を喫したことが決定的なきっかけだが)。とくに、この戦争で映像メディアが大きな役割を果たしていることを意識した映画作家たちが、映画という自分たちの表現手段を使ってアメリカ帝国主義への批判とヴェトナム人民との連帯を表明しようとしたことは、歴史上、また映画史上、きわめて重要な出来事と言えるだろう。その成果こそ、「ベトナムから遠く離れて」(67年)にほかならない。クリス・マルケルの呼びかけに応え、(映画のクレジット順で)アラン・レネ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イヴェンス、アニェス・ヴァルダ、クロード・ルルーシュ、ジャン=リュック・ゴダールがフィルムを持ち寄り、マルケルの総編集のもとに出来上がったこの映画は、視点や語り口においてきわめて不均質でありながら、いや、それゆえにこそ、ヴェトナム戦争という大きな出来事が映画界に与えたインパクトの広がりと深みを如実に示している。そのなかでも、われわれはとくにイヴェンスとゴダールの二人に注目したい。結論的に言うなら、旧左翼的で直接的なイヴェンスと、新左翼的で媒介的なゴダール、その両極端の出会い(損ね)の場となっているところに、「ベトナムから遠く離れて」のひとつの面白さがあるのではなかろうか。 |
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言うまでもなく、ヨリス・イヴェンス(1898−1989)*[3]
は文字通り20世紀の世界を端から端まで横断したといってよい偉大なドキュメンタリー映画作家である*[4]。すでに30年代から、イヴェンスは明確に社会主義の立場に立って、正確なカメラ・アイでとらえた現実をモンタージュを駆使してダイナミックに構成していくという方法を打ち立て、激動の世界を旅しながら、市民戦争をヴィヴィッドにとらえた「スペインの大地」(37年)に代表される多くの作品を制作してゆく。第二次世界大戦後(フランスがインドシナを再植民地化しようとしたように)祖国オランダがインドネシアを再植民地化しようとしたとき、イヴェンスがオランダ政府に派遣されながらこの動きを批判する「インドネシア・コーリング」(46年)を撮っていることも、注目に値するだろう。この件で祖国から裏切り者扱いされることになったイヴェンスは、東欧に移り、社会主義国家建設のプロパガンダ映画――というのが言い過ぎだとしても、それに限りなく近いものを撮っている。しかし、56年のハンガリー動乱とスターリン批判をへて、イヴェンスも少しずつスターリン主義から離れ、むしろ毛沢東主義に接近するようになった*[5]。こうしてみると、イヴェンスがヴェトナム戦争を題材として選んだのは当然の成り行きだったと言えるだろう。このときもまた、イヴェンスはヴェトナムの現地に飛び込み、そこでの現実をできるかぎり正確にカメラに収めようとする。「ヨリスにとって、真のドキュメンタリー映画を撮るということは、まず人々と生活を共にし、時間をかけて出会い、見つめ、話を聞くこと、『北緯17度』(68年)でのように、アメリカ軍の絶え間ない爆撃の下、地下10メートルで三ヶ月間人々と暮らすことでした」というマルスリーヌ・ロリダンの言葉は、いかにも単純ながら、イヴェンスの映画づくりの核心を言い当てている。実のところ、「北緯17度」は、イヴェンスと、彼の晩年のパートナーとなるロリダンの、最初の共同監督作品であり、16oの同期録音撮影という初めての実験でロリダンが録音を担当して、見事な成果をあげている。実際、イヴェンスの映画の多くは、ダイナミックなモンタージュを特徴とするが、「北緯17度」では、同期録音のためもあって、比較的に長いカットが多く、ヴェトナムの現実がいっそうダイレクトにとらえらることになった。リアルと言うほかない風の音、そして、アメリカ軍機の爆音や爆弾の落下音。その真下にあって、地上で、また深い地下壕で*[6]淡々と生活を続け、闘争を続ける人民の、あくまで静かな確信に満ちた行動や言葉。とくに、戦争の記録映画でありながら女性たちの活動が重視されているところ、また、人民の維持している文化――演劇や教育などにとどまらず、農作業から炊事まで、果ては立ち居振舞いのすべてに現れる文化の質の高さがゆっくりと滲み出てくるところは*[7]、この映画の大きな長所と言えるだろう。イヴェンスのそれまでの作品がどちらかと言うと男性的だとすれば、「北緯17度」を言葉の最良の意味で女性的な抵抗の映画と呼ぶこともできるのではないか。ともあれ、まさしく柳のようにしなやかに圧倒的な暴力に対応してゆくヴェトナム人民の姿は実に感動的であり、イヴェンスのカメラは激戦下にありながらほとんど静謐と言ってよい美しさをもってそれを記録している。 |
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イヴェンスは、前年の共同制作作品「ベトナムを遠く離れて」のためにも、主にハノイで撮った同じようなフッテージを送っている。その一部は、ゴダールの参加作品である「カメラ・アイ」の中で使われていさえする。しかし、イヴェンスとゴダールのアプローチは、むしろ対極的だ。イヴェンスが現地に飛び込み、そこでの現実をダイレクトに記録しようとするのに対し、ゴダールはフランスにとどまり、フランスとヴェトナムとの遠い距離、さらにいえばカメラという媒介が不可避にする距離について、カメラを操作する自分自身の姿をえんえんと映しながら、あくまでも内省的に――彼自身の言葉を借りれば「ナルシス的」に――考察するのだ。「勝手にしやがれ」(59年)で長篇デビューしたゴダール(1930−)は、60年代後半に急速に左傾化し、フランスでの毛沢東主義者の新左翼運動を半ば真面目に、半ばパロディとして扱ってみせる「中国女」(67年)を撮っているところだった。もはや、かつてのイヴェンスのように、何が正しいかを確信し、それをダイレクトに撮影さえすればいい、というわけにはいかない。彼にとっては、撮影するという行為そのもの――さらにいえば映画という表象そのものの不可避的にはらむ距離や暴力がすでに問題なのだ。こうして、「カメラ・アイ」の中で、ゴダールはカメラを操作する自分自身の姿を観客の前にさらしながら、独白を続ける。自分は一年半ほど前にヴェトナムに行こうと思って企画書を出したものの、イデオロギー的に信頼できない人物と思われたのか、ハノイの許可が下りなかった。考えてみると、その判断は道理にかなっている。フランスで映画を撮るのが難しくなったからといって、ヴェトナムに行けば撮れるというものではない。フランスでヴェトナムから遠く離れて映画を撮りながら、ヴェトナムのことを語らねばならない。ここで「中国女」のヴェトナム戦争に関するシーンが引用される。そして、ヴェトナムに入り込むのではなく、ヴェトナムがわれわれの中に入り込むに任せるのだと言い、「第二、第三のヴェトナムをつくれ」というゲバラの言葉をその線で解釈して、「自分自身の中にヴェトナムをつくれ」と言う。ただ、それで問題が解決するわけではない。フランスで、一方ではラ・ロディアセタなどの労働者たちがストライキを構えて資本化と闘い、他方ではゴダールがアメリカ映画の経済的・美学的帝国主義と闘っている、しかし、その労働者たちとゴダールの間には、ヴェトナムとゴダールの間にあるのと同じような距離があるのだ。その距離を意識したまま、「カメラ・アイ」は、ブルトンの「長い革命的忍耐」と「叫び」という言葉の引用で終わる。苦渋に満ちた、しかし、真摯な独白である。 |
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だが、ゴダールはそのままスタジオに寵もり続けたのではない。68年の五月革命に際しては、街頭に立ち、数々のシネ=トラクト(アジビラ映画)を制作する。とくに、画家のジェラール・フロマンジェと制作した「赤」――三色旗の上を赤い絵の具が覆い尽くしてゆくさまを逆回しで撮った作品――などは、「中国女」の方法論をさらに過激化してゆく契機として注目に値するだろう。さらに、世界各地を旅し、「中国女」の撮影に際して知り合ったジャン=ピエール・ゴランとジガ・ヴェルトフ集団を結成して、69年からはこの集団の名前で数々の革命的な映画を制作する。そのひとつの極点が「東風」(69年)に他ならない。イタリアで撮影されたこの映画では、一方で、アメリカ映画の典型としての西部劇(「西側」の表象の典型としての「ウェスタン」)の紙芝居めいたパロディが展開される。北軍兵士(アメリカ帝国主義)とインディアン(第三世界)、ブルジョワ女と「アルチュセール嬢」*[8]
らの闘士たち、そして「翻訳」による「裏切り」を行なう修正主義者。だが、そこで問題なのは、むしろ、このような形では現実の闘争を表象できないということなのだ。そこから、問題は、ブルジョワ的表象(代行)概念一般――それは当然映画そのものを含んでいる――の批判へと拡大され、この映画のスタッフによる討論(職場大会)がとめどなく続く一方、映像はしばしば黒画面によって中断され、あるいは、フィルムがずたずたに傷をつけられたり穴を穿たれたりして、ほとんど不可視の域に近づいてゆく。そう、これは自己破壊にまで近づいた自己批判(ゴダールの、そして映画の)の記録――きわめて過酷でありながら息を呑むほどにカラフルな、光に満ちてなおどす黒いドキュメントなのだ。もちろん、この映画がさまざまな潮流を的確に批判しながらも*[9]、タイトル*[10]の示すとおり最終的に毛沢東主義に接近しすぎていることを、時代的な限界として批判することは易しい。だが、そのことも含めて、ここには68年を通過してほとんど作家としての自己を否定するところまで行き着いた映画作家の――そして映画の姿が、このうえなく鮮やかに焼き付けられている。果たして、「東風」は強い衝撃をもって迎えられた。たとえば、70年に日本でこの映画に接した中平卓馬は、「『東風』をはじめてみた時、ぼくは大きな金槌で頭を叩かれたような気がした」と書いている。そして、この映画が<作家>−<作品>−<享受者>というブルジョワ個人主義の美学を破壊するものであると的確に指摘する彼は、さらに、ほとんど死者も出ていないのに「パリ五月革命」などと称し、とくに日本でそれがファッション化して受け取られているのに抵抗を感じていたと述べた上で、こう続ける。 |
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だが正直に告白するが、『東風』をみて、まぎれもないゴダールの「虚構」を通して初めてパリの五月が、歴史のとてつもない巨大な転換点であった、そしてそれはまさしく革命、結果としては<流産した革命>であったというこの単純な一事実をぼくは知った。
南北戦争の軍服を着た男がヴィアゼムスキーの首を間歇的に絞め上げ、そこに外側から、つまりカメラの側からかけられる大量の“血を思わせる”赤インク、この長いシーンにぼくはパリの五月を見た。それが少しも血らしくなく、まさしく赤インクでしかないことによって、赤インクは赤インクでしかないことを明示するゴダールの虚構の故に、逆にぼくはパリの五月を見た。
だが、はっきりと断っておかなくてはならない。それは『東風』が五月を巧みに、<表現>していたとか、<現実>を正確にとらえていたとかいう意味ではない。そうではなくてすでに『東風』は<現実>の一部なのだ。見てはいないがパリの五月の壁を埋めつくしたであろう無数のアジビラが、ただ革命を表象する記号ではなく、まさしくそれ自体革命であったように、『東風』もまた現実の一分なのだ。*[11]
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この鋭敏な写真家による同時代の評言は、現在でもほとんどそのまま通用するだろう――「パリの五月」を、その他の革命的状況、とくにイタリアの68−69年*[12]
も含めた提喩と取るならば。そう、それはゴダール個人の作品というより、68年という巨大な事件が映画に及ぼした激震の記録――地震計の記録紙となったスクリーンをほとんど突き破らんばかりの記録なのである。 |
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その後の経緯については、ごく簡単に見ておく余裕しかない。ジガ・ヴェルトフ集団は「イタリアにおける闘争」(69年)をはじめとする作品を撮り続け、事実上、ゴダールとゴランの連名による「万事快調」(72年)や「ジェーンへの手紙」(72年)――「万事快調」の主演女優でもあるジェーン・フォンダがアメリカの反体制派として北ヴェトナムを訪れる、それにまつわるイメージ操作を批判的に分析した作品――まで活動を継続する。だが、それらに勝るとも劣らぬほど重要なのは、彼らが完成させることのなかった一本のフィルムだろう。70年にパレスチナに行って撮った「勝利まで」である*[13]。このときのフィルムを抱えたままのゴダールにさまざまな事件が起こる。ゴランとの別れとジガ・ヴェルトフ集団の解体、アンヌ=マリー・ミエヴィルとの出会いとソニマージュ工房の設立……。そうした断続的な時の流れの中で、「勝利まで」はやがて「こことよそ」(74−75年)という別の映画となって甦るのだ。「1970年にはこの映画は『勝利』と呼ばれていた。1974年にはこの映画は『こことよそ、とよそ、と……』[三つの「と」を太字に]と呼ばれる」。「ここ」(今日TVを見るフランスの家族)と「よそ」(昨日のパレスチナ革命)の間には、容易に埋めることのできない溝がある。世界を単純に二つに分け、それを+でつなぐというかつての方法は徹底的な懐疑にさらされ、むしろ、その中間にある「と」[太字]を根底的に考え直そうとする姿勢が実践的に示される。それはまた、映画という媒体を考え直す――とくにヴィデオという別の媒体を使って解体し再構築することでもあるだろう。そして、この「こことよそ」に始まるゴダールの新たな実践は、かつてのように華やかではない分、はるかに深く静かに展開されてゆき、ついには「映画史」にまで至る圧倒的な作品群を生み出すことになるのだ。「映画史」の最終巻、ゴダールそのひとの自伝という色彩をもつ4Bの終わり近くの決定的な場面で「こことよそ」が引用されるのも、したがって、けっして不思議なことではない。振り返ってみれば、「こことよそ」におけるこのような姿勢は、「ベトナムから遠く離れて」の「カメラ・アイ」の姿勢を思い出させる。もちろん、革命運動に挫折したゴダールが、ヴェトナムに行けずにいるアーティストの「ナルシス的」な内省に戻ったというのではない。「ベトナムから遠く離れて」の後、世界のあちこち――なかんずくパレスチナに行き、さまざまな制作と闘争を続けてきた映画作家が、自分の潜り抜けてきた体験を総括しながら「こことよそ」にまで到達したというべきなのだ。その屈折に満ちた軌跡は、どこまでもまっすぐなイヴェンスの軌跡*[14]
と並んで、20世紀の歴史と対峙してきた映画史の主軸を構成している。21世紀に入って、それらがどのように継承されてゆくか。それはまさしくわれわれ自身にも突きつけられた問題である。 |
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付記:
これは、2001年に「浅田彰セレクション」と題して「ベトナムから遠く離れて」「北緯17度」「東風」が上映された際のプログラム解説に加筆・訂正を加えたものである(上映企画とプログラム作成はザジフィルムズによる)。今年は、ゴダールのさまざまな作品、とくに、「中国女」の後、ジガ・ヴェルトフ集団の共同制作の直前にゴダールが撮った「ウイークエンド」(67年)のニュー・プリントが公開されていることでもあり、あらためてここに公開することとした。なお、『批評空間』IV−4号に掲載される予定の私によるインタヴューの中で、ゴランがゴダールとの出会い・共同作業・別れをきわめて率直かつ明快に語っているので、ぜひ参照されたい。 |
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