Critical Space Archive

音楽・政治・哲学――ノーノをめぐって
 ここ秋吉台では、音楽監督の細川俊夫を中心に、内外のすぐれた音楽家の参加を得て、きわめて充実した活動が積み重ねられてきました。そして、10年目にあたる今年(1998年)は、磯崎新による国際芸術村の見事な建物ができあがり、そのユニークなホールでルイジ・ノーノのオペラ《プロメテオ》の日本初演が実現されるはこびとなったわけです。そもそもこのホールは《プロメテオ》を念頭に置いて設計されたのですから、これほど贅沢なことはないと言うべきでしょう。並々ならぬ努力によってここまで漕ぎ着けられた細川俊夫をはじめとする関係者の皆さんに、深い敬意を表したいと思います。
 この歴史的な機会に、ノーノの歩みをもういちどざっと振り返ってみたい。とはいえ、私は音楽の専門家ではないので、むしろノーノをとりまく状況をできるだけ広く展望することにし、ノーノの音楽については作品そのものに語らせることにしたいと思います。
 ノーノは、1924年にヴェネツィアに生まれ、90年にヴェネツィアで死んだ、イタリアの作曲家ですが、何といっても、50年代のダルムシュタットでシュトックハウゼンやブーレーズとともにヨーロッパ前衛音楽の三羽烏に数えられた人物としてあまりにも有名です。確かに彼は50年にダルムシュタットに行き、50年代を通してそこで華々しく活動するわけですね。しかし、すでにその時から、ダルムシュタットの主流とは異質な部分をもっていたことに注意すべきでしょう。というのも、彼は、全面的セリー主義による形式的統一に向かうより、形式的手法を使いながらも同時に強烈な政治的メッセージをそこに込めようとしたからです。50年にダルムシュタットで初演された事実上の処女作《シェーンベルクの作品41のセリーによるカノン風の変奏曲》からして、一方では形式的な実験でありながら、他方ではシェーンベルクの作品41《ナポレオン・ボナパルトへのオード》そのものが戦争中に書かれた痛烈な権力批判であることと無縁ではない。さらに、ナチスに殺された人々の書き残した言葉をテクストとする《イル・カント・ソスペーソ(中断された歌)》(55-56年)になると、そのような傾向はいっそう鮮烈にあらわれてくる。この曲に対して、シュトックハウゼンが、ノーノの手法ではテクストがはっきりと聴き取れないのだから、たんに音素を並べるだけでもよかったはずだ、と批判し、ノーノがそれに激烈な反批判を行なったことは、あまりにも有名です。このように、ノーノは、ごく初期から、音楽的前衛が同時に政治的前衛でもなくてはならず、音楽の革命は同時に革命の音楽でなければならない、という理念をもっていた。そして、50年代末になると、それがダルムシュタットの主流と齟齬をきたすようになって、独自の道を歩まざるを得なくなるわけです。
 ここでイタリアの文脈に目を移すと、ノーノはマデルナと一緒に52年に共産党に入党し、以後、共産党を代表する文化人のひとりとして活動していくことになります。とくにダルムシュタットと決別してからは、左翼の音楽家たちと北イタリアの各地で労働組合の活動などに参加しているんですね。ここで初歩的な補助線として、イタリアの独自の左翼文化のことを考えておく必要があります。20年代以降、ソ連はもとより、世界の共産党が、スターリン主義の支配下に入ってゆく。ハンガリーのジェルジ・ルカーチや日本の福本和夫といった、いわゆる西欧マルクス主義に近い理論家たちが、次々にモスクワから批判され、スターリン主義者にとってかわられていくわけです。ところが、イタリアでは、独自の理論家だったアントニオ・グラムシが、26年にファシストに逮捕されて37年に亡くなるまでずっと獄中にいて、スターリン主義とは異質な理論的基盤を後に残したんですね。また、共産党が壊滅状態にあったドイツや日本とは違って、イタリアでは共産党が戦争中にレジスタンスで大きな役割を果たし、その実績ゆえに戦後も多くの人々を引き付けたことも無視できません。ともあれ、56年にソ連でスターリン批判が始まり、各国の共産党が衝撃を受けるわけですが、その年に、かつてグラムシの仲間だったトリアッティが「社会主義へのイタリアの道」と称していわゆる「構造改革路線」を打ち出す。その後、ベルリングエルが、いわゆる「ユーロコミュニズム」の旗手となり、保守党との「歴史的妥協」をはじめとする柔軟路線を打ち出す。そして、91年のソ連崩壊以後は、イタリア共産党はいちはやく左翼民主党へと党名を変更し、「オリーヴの木」という左翼連合の一員として政権を担うことにもなる。だいたいそういう流れになっていきます。そういうわけで、他の国の共産党と違って、イタリア共産党はノーノのような存在をも許容する柔軟性を例外的にもっていたんですね。もちろん、ノーノが共産党に入ったころは、イタリア共産党といえども公式的には社会主義リアリズムを掲げていた。文化エリートが仲間内で難解な前衛ごっこをやって喜んでいても意味がない、広く大衆に訴えかけることのできる芸術文化、具体的には社会主義リアリズムが必要だ、と。それに対し、ノーノは、分かりやすい芸術と言うけれども、その分かりやすさということ自体が資本主義的大衆文化によって作られたものなのであって、資本主義社会の革命はそういう大衆文化の革命でもなければならない、と主張して、共産党員でありながらいわゆる前衛音楽を探求しつづけたわけです。
 こうしてノーノはその後も活発な創作活動を展開するわけですが、60−61年の《イントレランツァ(不寛容)1960》、それから72−74年の《愛に満ちた太陽の光の中で》(AL GRAN SOLE CARICO D'AMORE = AU GRAND SOLEIL D'AMOUR CHARGE というタイトルはランボーの詩「ジャンヌ・マリの手」からとったものです)という二つのオペラ(広い意味でのオペラですが)をピークとして挙げるのが通説になっています。それらの間にはさまざまなフェーズのずれが見られるものの、音楽の革命と革命の音楽を同時に追求するという情熱においては通底していると言えるでしょう。しかし、《愛に満ちた太陽の光の中で》の後、ノーノは大きな転回点を迎える。そして、この転回の後の時期を象徴するモニュメントが、81-85年の三つ目のオペラ《プロメテオ》だ、ということになるわけです。
 日本でもよく知られている作品で言えば、《力と光の波のように》(71-72年)と《…苦悩に満ちながらも晴朗な波…》(74-76年)を比較することで、この転回を見て取ることができるでしょう。これらはいずれもノーノの左翼運動の同士だったアバドやポリーニとの密接な協力のもとでつくられた作品です。前者は、不慮の死を遂げたチリの革命家ルシアーノ・クルツに捧げられた詩に基づく作品で、タイトルもその詩の一節からとられている。その音楽は、深い追悼の念から出発しながらも、やがてまさしく革命的な爆発へと至る。ちなみに、アバドが解説しながらこの作品を演奏する一種のレクチャー・コンサートのドキュメンタリー映像が残っていて、演奏の後ノーノやポリーニが聴衆と激しく議論を戦わせる様子を見ることができます。そこには70年代前半までの左翼文化の熱い盛り上がりが感じられるんですね。ところが、《…苦悩に満ちながらも晴朗な波…》になると、同じポリーニのために書かれた曲でありながら、ずいぶん雰囲気が違ってくる。前者では外向きの爆発が見られるとすれば、後者では、ポツリポツリと音が置かれ、それらが互いに響き合う中から、ある意味で内省的な空間が広がっていくんですね。《…苦悩に満ちながらも晴朗な波…》が作曲された時には、ノーノの家族とポリーニの家族の双方に不幸があったらしく、そういう個人的な事情も影を落としているに違いない。しかし、それだけではなくて、ノーノはこの時期に大きな転回点にさしかかっていたのではないか。実際、ノーノ自身、「《愛に満ちた太陽の光の中で》の後、私は、自分の仕事を、そして自分が今日の社会で音楽家としてのみならず知識人として存在するありかたを、全体として考え直す必要があった」と述べています。《愛に満ちた太陽の光の中で》が政治の革命と音楽の革命を一つにしたヴィジョンの集大成だったとすると、その後にある種の切断があって、それ以後はもっと深い内省的な空間が開かれることになる。たまたまポリーニのために書かれた二つの曲がその前後にあって、その切断面をうまく照らし出していると言えるかもしれません。
 この75年前後の転回についてさらに考えていくために、そこでノーノに大きな影響を与えたマッシモ・カッチャーリについて触れたいと思います。本当はカッチャーリ自身が秋吉台に来て話をしてくれるはずだったんですが、幸か不幸かカッチャーリはヴェネツィア市長になってしまって、映画祭などに出席しないといけないものだから、ここには来れなかった。とてもその代わりというわけにはいかないものの、とりあえず紹介をかねた話をしておきます。カッチャーリは44年生まれで、ノーノより20歳若い。ノーノは共産党員でしたが、カッチャーリは最初は非共産党系の新左翼として出発するんですね。ここでカッチャーリに大きな影響を与えたのがアントニオ・ネグリです。ネグリは、後に、新左翼の運動、特にアウトノミア(自律)と呼ばれる運動をリードしたあげく、「赤い旅団」によるテロの黒幕としてフレーム・アップされて79年に逮捕・投獄され、国会議員に選ばれて免責特権によって出獄した機会にフランスへ亡命して理論的活動を続けてきたけれども、去年(1997年)、自らの意志でイタリアに帰って、今なお獄中にいるという人です。実は、カッチャーリは最初ネグリと新左翼運動の中でめぐり会い、その影響下で哲学書を読んだり政治的に活動したりし始めるわけで、68年からは『コントロピアノ(カウンタープラン)』という雑誌を一緒に作ったりもしています。そういう新左翼の立場から見ると、ノーノはいまだに共産党なんかにいる、しかし、同時に前衛の先端にもいる、どうしてなんだろう、ということで付き合いが始まったんですね。ところが69年頃からカッチャーリ自身が変わっていくんです。ネグリは、前衛党としての共産党が労働者を代表して階級闘争の指導部の役割を果たすという考え方を否定し、いま・ここで労働者が自律することが大事なんだ、そういう無媒介的な運動が草の根式に横につながって広範な社会運動になることが望ましいんだ、と考えていた。また、現実に、イタリアでは、68年の高揚の後、学生運動が下火になってからも、失業者も含む労働者の運動が続いて、むしろ75-76年にアウトノミア運動がものすごく盛り上がる。それで、弾圧も強まって、さっき言ったように指導者と目されたネグリの逮捕・投獄にもつながっていったわけです。ところが、カッチャーリは、政治とはそんなに単純なものではない、やはり政治においてはある種の「媒介」は避けがたい(さらに言えば、ヘーゲル=マルクス的な「媒介」のみならずシュミット=ベンヤミン的な「決断」を避けて通ることはできない)と考え、むしろ69年になって共産党に入り、76−83年にかけては国会議員として活動するんです。ただし、党員としては徹底的に党の実務家として活動する。そして、それと同時に、書斎に帰ったときはマルクス主義のオーソドキシーにとらわれない哲学者として思考する。そういう分裂的な生活をあえて受け入れるんですね。その後、共産党が左翼民主党という名前に変わり、それを含む「オリーヴの木」という左翼連合が政権を取ることになりますが、カッチャーリも左翼連合の候補として93年にヴェネツィア市長に選ばれ、昨年(1997年)再選されて、現在もその地位にあるわけです(結局2000年まで在任した)。カッチャーリは、一方でそのように政治家として活動するとともに、しかし他方で哲学者としてはむしろ深い内省に向かっていくことになります。新左翼として出発したわけだから、最初はマルクスやレーニンを読んでいたのが、むしろニーチェやヴィトゲンシュタイン、あるいはヴィトゲンシュタインを含む世紀末から戦前のウィーンの哲学者や作家を集中的に読むようになる。それをさらに集約するものとして、ベンヤミンの存在が大きくなってくる。一方では政治家としてやらなければならないことをやると同時に、他方で書斎にこもったときはベンヤミン的な深い思考を紡いでいくことになるんですね。実のところ、ベンヤミン自身に関しても、世界的に重点の移動があったと言えるでしょう。ベンヤミンは、左翼の思想家として、ブレヒトなどと共に革命的なヴィジョンを描いていた。しかし他方で、カバラの研究で知られることになるショーレムなどと共に、ユダヤ神秘主義に限りなく近い思考を紡いでもいた。で、新左翼が高揚していた時には、ブレヒトと共にある革命的なベンヤミンというのが流行ったけれども、新左翼が挫折してからは、ショーレムとともにあるベンヤミン、スーザン・ソンタグの有名なエッセイの言葉を借りて言うと「土星の徴の下」にあるメランコリーの思想家としてのベンヤミンが注目されるようになるわけです。その点、カッチャーリも例外ではなく、特に70年代後半以降は、そのようなメランコリックなベンヤミンを思考の中心に据えるようになるんですね。ただ、それをたんに政治から内省への転向と見るべきではない。現に、カッチャーリは一方ではあくまでも政治家として活発に活動している。その場面においては彼は哲学者としてではなく徹底して政治家としてやる。しかし、一歩書斎に帰ったときには、ベンヤミンなどを導きの糸として、神秘主義にもつながる西洋思想の深部を探っていくわけです。
 政治の革命と音楽の革命をイコールで結ぶようなそれまでのヴィジョンから転回しようとしていたノーノにとって、そのようなカッチャーリが大きな影響を及ぼすことになるんですね。実際、その影響によって、それまでいわゆる左翼文献ばかり使っていたノーノが、ベンヤミンからヘルダーリンにいたるもっと広い領域に歩み出していく。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という有名なテーゼで終わりますが、そういう語り得ぬものを沈黙のうちに語らせるという方向に向かっていくわけです。この二人の共同作業の集大成と言えるのが、カッチャーリ自身が書いた――というより編纂したテクストを台本とし、それをノーノが音楽にした、《プロメテオ》でした。実際、テクストだけを比べてみた場合にも、それまでの二つのオペラとの違いは明らかです。例えば《イントレランツァ1960》だと、「ノー・パサラン!(あいつらを通すな!)」(スペイン市民戦争のときの反ファシストの合い言葉)とか「ファシズムに死を!」とかいったさまざまなスローガンが、マヤコフスキーやブレヒトの詩とともに使われるわけですね。あるいは《愛に満ちた太陽の光の中で》では、パリ・コミューンの犠牲者の言葉が、同時代を生きたランボーの詩、あるいはマルクスがパリ・コミューンを分析した『フランスの内乱』のテクストと合わせて使われるというふうになっている。だいたい、マルクスをはじめとする左翼文献を軸にして、そこに詩的なものが織りまぜられるという形だったわけです。ところが、《プロメテオ》では、ヘシオドスやアイスキュロスの神話的なテクストが、ベンヤミンのテクストと合わせて使われている。違いはあまりにもはっきりしていると言うべきでしょう。オペラだけではない。《プロメテオ》に先立つ《断片=静寂、ディオティマへ》でも、弦楽四重奏曲でありながら、スコアにはびっしりとヘルダーリンのテクストが書き込まれており、しかし、それは実際には全く読まれないということになっているわけです。
 これを革命から内省への転向と見ていいのかどうか。確かにそういう面がまったくないわけではない。けれども、われわれはもっと深いところにある連続性を重視すべきだと思います。ノーノは、かつての自分の革命的実践を否定し、それを捨てて内面にこもろうとしているのではない。むしろ、いままで自分がやってきたことをもういちど考え直し、別の形で継続しようとしたのではないか。実際、かつての「政治的」な作品でも、たんに政治的なテクストをそのまま使ったプロパガンダというわけではなかった。87年に来日したときの講演「現代音楽の詩と思想」で、ノーノは、ロルカの詩の中の「verde(緑)」という言葉や、ウンガレッティの詩の中の「amore(愛)」という言葉に注目し、音素のレヴェルで見たときに r が一種の切断として機能していることを指摘した上で、カストロの演説でも r がまさに同じような切断力をもって使われていると言うんですね。プロパガンダ的に言えば、カストロが何を言っているかが重要なのであって、 r をどう発音しようが変わらないはずです。ところが、ノーノにとっては、カストロがいかに革命的なことを言ったかということと同じぐらい、あるいはそれ以上に、彼が r という音素をいかに革命的に扱ったかが重要だったわけですね。ノーノにとっての政治というのは、もともとそういう次元を含んだものだった。そういう次元へのまなざしが、70年代後半以降、より深いところにまで届くようになっていく。確かに、単純な意味での政治はノーノの作品においてその比重を低めていくけれど、別の意味における政治、音楽における政治は、彼にとって最初から重要だったし、70年代後半以降もますます深まっていったということだと思うんです。また逆に、《断片=静寂、ディオティマへ》ではヘルダーリンが出てくるわけですが、体制と衝突して精神に異常をきたし塔に閉じ込められたヘルダーリンを、ノーノは牢獄に閉じ込められたグラムシと重ねて考えている。あるいは、《プロメテオ》でも、神話的なテクストとベンヤミンのテクストを併置することで、文字どおり「法外」な苦難を背負わされたプロメテウスの嘆きが、ベンヤミンの法の暴力に対する批判と重ねあわせられる。その意味でも、ノーノの音楽の革命/革命の音楽は、より深く広大な次元で続行されていると見ることができるでしょう。
 そのことを確認した上で言えば、それまではやはりマルクス主義ならマルクス主義のドグマに対する確信がなかったわけではない、それが、ナイーヴな確信に対する懐疑をへて、もっと多面的な内省へとシフトしていくということはあったと思います。ノーノは、カトリックの教義を「我信ず(クレド)」に還元した上で、「聴け、イスラエルよ」という命令を普遍化した「聴け」――イタリア語で言えば「アスコルタ」という命令のなかにユダヤ的なものの本質を見ていた。その意味でのユダヤ的なものが前面に出てくるわけです。実際、ノーノは本当に良く聴く人でした。87年に来日したとき、一緒に京都をまわっていろいろ話し合ったことがあるんですが、なにか話していても、たまたま車でお寺の前を通りかかったりする、あるいは音楽が聴こえてきたりする、すると、ハッと息を吸い込んで、黙ってしまうんですね。その時、彼は聴いているわけです。たとえば、お寺を見ると同時に、お寺を聴いている。門をくぐり、敷居をまたぐと、ふと位相が変わって、光も音も全部変化する、それをノーノが全身を使って聴こうとしていた様子を、いま非常に印象深く思い出します。ともかく、若き日のノーノには、マルクス主義のドグマを信じ、それを強く主張していくという面がなきにしもあらずだったのに対して、早すぎた晩年のノーノは、まず聴くということを重視するようになった。これを多少哲学的に言い換えると、大きな歴史の流れを弁証法的に捉える見方から、むしろ空間に散在する差異に対して敏感であろうとする見方への転換ということもできるでしょう。ヘーゲルによれば歴史とは闘争の歴史であり、マルクスによれば歴史とは階級闘争の歴史である。いずれにせよ、AとBがぶつかりあってより高いCができる、それがDとぶつかりあってより高いEができる、というふうに、矛盾と葛藤の中からそれを乗り越えて新しいものが出てくることで歴史が全体として前進していく、それがヘーゲル=マルクス的な弁証法の見方だったわけです。しかし実際にはそういう弁証法は挫折する。そこで、アドルノなどは、「否定弁証法」と称して、決して最終的綜合に行き着かない、否定に次ぐ否定が累積していく過程を考えるようになるわけですが、ノーノやカッチャーリは、さらに、弁証法的な過程というヴィジョンそのものを捨て、その外に足を踏み出そうとしたわけです。すると、歴史的な過程に代わって、空間的な拡がりがでてくるんですね.空間的な拡がりの中で、カッチャーリが《プロメテオ》について語った言葉で言うと「群島」のように差異が分布している、それにつぶさに耳を傾け、また、作品として組織していくことが重要である、と。これは、リオタールが『ポストモダンの条件』で言おうとしていたことの最良の部分にも通じるかもしれません。モダンの時代がヘーゲル=マルクス的な弁証法的過程の「大きな物語」に支配されてきたとすると、そういう「大きな物語」が失効したポストモダンの時代にはさまざまな「小さな物語」の多様性に敏感であることが求められる。リオタールはそういうことを考えていたわけです。ただし、ノーノに対してポストモダンという言葉を使うのはいかにも似つかわしくない感じがする。というのは、ポストモダンという言葉が、資本主義的消費社会に取り込まれてしまい、こういう意匠もあります、別の意匠もあります、それぞれ面白いですよ、というふうに、商品の差異化のプロセスに利用されてしまったからなんですね。しかし、弁証法の「大きな物語」がもはや信じられなくなったことは疑いない。そこで、むしろそういう「大きな物語」によって抑圧されていた無数の小さな差異により敏感に耳を傾け、そして、そういう差異の群島状の響き合いを組織していくことが問題になる。それが70年代後半以降のノーノやカッチャーリのヴィジョンだとすれば、そこにはやはりある種の同時代性の刻印を見出すことができると思います。
 そういう場面で、ノーノは自分をヴェネツィアの作曲家として再発見したとも言えるかもしれません。ヴェネツィアは、それ自体、まさしくラグーンの上の群島です。《…苦悩に満ちながらも晴朗な波…》のライナー・ノートの中で、彼はそこでのサウンドスケープについて書いています。ジュデッカにある自分の家に、いろいろな教会の鐘の音が、そのときそのときの状況によって響きを変化させつつ響いてくる。もちろん、鐘の音のみならず、ヴァポレットという蒸気船のポンポンという音や、ゴンドラ乗りのかけ声や、その他さまざまな音も響いてくるだろう。そのように多種多様な音が群島状の空間を飛び交っている、それがヴェネツィアだ、と。彼はそれを英語で言えばマルチ・ユニヴァースと呼んでいます。そういうマルチ・ユニヴァースとしてのヴェネツィアのサウンドスケープが、晩年のノーノにとって、いわば先祖返りのような形で、大きな役割を果たしたのではないかと思うんです。
 さらに具体的に音楽史を振り返ってみても、ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂は巨大な内部空間をもっており、その中でコーラスや金管楽器を分散的に配置して響き合わせるということを早くからやっていた、それがバロックの先駆けになるわけですね。ノーノは、フランドル楽派とならんで、ガブリエリやヴィラールトといったヴェネツィア楽派にも通暁しており、とくに晩年にはそれを強く意識していました。また、オペラの歴史を考えてみても、オペラは1600年頃に始まるわけで、フィレンツェのカメラータが理論的な準備を行ない、マントヴァの宮廷で最初の上演が行われたと言いますが、何と言っても重要なのは《オルフェオ》のモンテヴェルディで、そのモンテヴェルディはまさにサン・マルコ聖堂の楽長だったわけです。もちろん、ノーノの《プロメテオ》の場合、エクステンシヴな空間の中で音と音とがスペクタキュラーに響きあうといった面は最小限にとどめられているわけで、それを単純にバロックのオペラになぞらえることはできない。しかし、ノーノが、ある意味でオペラの草創期に帰って、そこにあった別の可能性を今度はインテンシヴな空間のなかで展開しようとしている、という見方は可能かもしれません。
 このように、《プロメテオ》はノーノの早すぎた晩年の記念碑ともいうべき作品です。しかし、ノーノの歩みはそれで終わったわけではなく、その後も数々の作品が書かれている。たとえば、87年に日本で初演された《進むべき道はない、しかし進まなければならない;アンドレイ・タルコフスキーに》や今回秋吉台でもとりあげられる《夢見ながら進まねばならない》(89年)などの三部作は、本当に素晴らしいものだと思います。その意味でも、この作曲家の早すぎた死が残念でなりません。
 思い出してみれば、87年に日本に来たとき、磯崎新邸で食事を共にする機会があって、その時から、空間と音楽を共同で作り上げることはできないか、という話をしていたんですね。実はノーノは昔から建築に興味をもっていました。例えば、建築家のハンス・シャロウンは、ベルリン・フィルハーモニー・ホールを設計するとき、いろいろな響きがいろいろな場所から発生して干渉し合うというヴィジョンをもっていたにもかかわらず、カラヤンがとにかく中心に君臨する自分を全員に見せる空間――いわゆるカラヤン・サーカスにしてしまったのは残念だ、というようなことを言っている。あるいは、ヴェネツィア周辺に美しいお墓などを残した建築家のカルロ・スカルパに捧げる曲も書いている。その延長上で磯崎新との共同作業の可能性を真剣に考えていたわけです。残念ながらそれは実現されなかった。とはいえ、磯崎新がそもそも《プロメテオ》を念頭において設計した秋吉台国際芸術村の見事なホールでこの作品が理想的な形で上演されるというのは、いまわれわれが望み得る最高の機会と言えるのではないでしょうか。
 ノーノが亡くなった後、未亡人のヌーリア・シェーンベルク・ノーノから磯崎新にお墓のデザインの依頼があって、ヴェネツィアのサン・ミケーレ島にお墓がつくられ、94年6月27日に、カッチャーリらも参列して、小さなセレモニーがありました。この墓地の島には、ディアギレフやストラヴィンスキー、あるいはパウンドのお墓などがあるので、行かれた方も多いと思うんですが、全体にとても人工的で小綺麗な墓地ですね。ところが、磯崎新は、スペイン市民戦争の記憶を大事にしていたノーノにふさわしく、バルセロナの近くからちょっと傷ついたような部分を含む大きなバザルト石をもってきて、ボンと置いてしまった。小奇麗な墓地の只中にあるその荒々しい石のお墓がいかにもノーノにふさわしい強度をもっていることに、だれもが感嘆の声をあげたものです。ちょうどそのとき、正午の鐘が鳴った。本島からそれほど遠くない墓地の島に、本島のさまざまな鐘の音が、微妙なずれを伴って水の上を渡ってくる。そこに鳥の鳴き声が響き、ヴァポレットやゴンドラの音が響く。そういうマルチ・ユニヴァースの多様なサウンドスケープの中に、「苦悩に満ちながらも晴朗な波」に洗われて、ノーノは安らかに眠っている。長い闘争を戦い抜いた偉大な作曲家の、それは美しい永遠の憩いの地でした。
付記:
これは1998年8月26日に秋吉台国際芸術村で行なわれた講演の記録であり、『InterCommunucation』27号に掲載された。そこには次の日に磯崎新、ヘルムート・ラッヘンマン、長木誠司と私が行なった共同討議も掲載されており、こちらはネット上でも読むことができる。(www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic027/html/128.html
編集部註:
2002年3月27日(水)にはマッシモ・カッチャーリ氏を迎えた講演会が、4月2日(火)にはシンポジウムが予定されている。詳しくはイヴェントページへ。

 PAGE TOP
Copyright © 2002 Critical Space Organization.  All rights reserved.
批評空間アーカイヴに戻る 批評空間アーカイヴに戻る
浅田彰アーカイヴに戻る 浅田彰アーカイヴに戻る
Top Page に戻る Top Page に戻る