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*「コンポジションVI・VII」を中心に |
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東京国立近代美術館で開かれているカンディンスキー展は、この画家の全貌を浅く広く示そうとするのではなく、彼が具象から抽象に移行した1910年代前半に焦点を絞り、しかも旧ソ連圏にあって従来あまり見る機会のなかった作品を中心に構成した、ある意味で「専門的」な、しかし、なかなか質の高い展覧会である。 |
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1866年にモスクワで生まれ、1896年にミュンヘンに出て美術を学んだカンディンスキーは、1908年頃から独自の境地を示し始める。特に、ミュンヘン近郊のムルナウで描かれた作品の、フォーヴィスムや表現主義の影響を受けた、しかし、それらよりも深く鮮やかな色彩。一方で、その背後にはロシアの正教*[1]
やフォークロアにつながる独特の色彩感覚が息づいているのだが(たとえば「クーポラ」[1909年])、他方で、それは具象を離れた色彩の交響のみによって絵画を構成するという実験につながるだろう(<インプロヴィゼーション(即興)>シリーズ[1909〜14年]や<コンポジション(構成=作曲)>シリーズ[1910〜14年])。その頂点である1913年の「コンポジションVI」と「コンポジションVII」――2m×3m近い2点の大作を見るだけでも、この展覧会に足を運ぶ価値はある。ロシアでも別々の美術館に所蔵されているこの2点が同じ壁面に並ぶのを見るというのは、かつてニューヨーク近代美術館でのマティス展でニューヨークとサンクト・ペテルブルグの二つの「ダンス」(1909−1910年)が並んだのを見たとき以来の贅沢な経験だ――そう言えばいささか大げさに過ぎるだろうか。これらの作品はそれぞれ「ノアの洪水」と「黙示録」をテーマにしているのだが、そう言われないとわからないくらい具象性の解体が進み、めくるめく色彩の交響が画面全体を覆っている。しかし他方で、これだけのスケールの画面の前に立ってみると、カンディンスキーがいわば教会のステンドグラスのような効果(色彩の連想させる響きも含めて)を狙っていたのだということが体感されるだろう。 |
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この後、カンディンスキーは1914年にロシアに帰国し、革命後は文化関係の要職についたりもするのだが、帰国前に予告されていた「コンポジションVIII」が描かれることはついになかった。最終的に1921年いっぱいでロシアを離れた彼は、1922年からクレーとともにバウハウスを拠点とすることになるだろう。そこでカンディンスキーの造形言語はもういちど整理され、明快な形で体系化されることになる。この展覧会にその時期の作品は含まれない。しかし、幸い、東京国立近代美術館の常設展にはカンディンスキーの「全体」(1940年)が含まれている。一般によく知られた「カンディンスキー的」な形態のカタログと言ってよい。それは美しく整ってはいるのだが、1913年頃の作品の危機的なダイナミズムを体験した後では、静的に図式化されすぎているように見えるのも確かだろう。カンディンスキーは1911年からシェーンベルクと文通を重ねているのだが、この作曲家の無調から12音技法の成立に至る時期の作品(たとえば画家が1911年に初めて聴いた「三つのピアノ曲」など)と12音技法が体系として確立されてからの作品の差異に似たもの――いや、それよりもずっと明確な差異が、そこには見て取れるのだ。もちろん、カンディンスキーがすでに晩年にさしかかっていたことも無視はできない。そして、画家は1944年に78歳の生涯を閉じることになるのである。 |
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*カンディンスキー/デュシャン |
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ところで、最近翻訳されたティエリー・ド・デューヴの『マルセル・デュシャン』(法政大学出版局)にはデュシャンをカンディンスキーと対比している部分があるので、この機会にそれに触れておこう。 |
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ド・デューヴは、デュシャンが1912年にミュンヘン(カンディンスキーと彼の主導する『青騎士』の活躍の舞台だった)を訪れ、パリに帰って絵画の放棄を宣言する(実際に放棄されるのはもっと後だが)というエピソードに注目し、美術史の視角から、またラカン派精神分析の視角から、それを精密に分析している。論理をほとんど不毛なところまで突き詰めていくその手つきは、鮮やかといえば鮮やかなのだが、最大の問題は、ド・デューヴがラカンの枠組みを無批判に受け入れていることだ。彼によると、デュシャンはそこで想像界から象徴界への移行を果したのであり、それに対してカンディンスキーは想像界にとどまっているということになるのである。それは色彩に関して特にはっきりする。カンディンスキーは、先に触れたような宗教的な発想やゲーテの色彩論などの影響もあって、個々の色彩――たとえば赤なら赤がそれに固有の「内的な響き」をもつという色彩の象徴主義を信じていた。用語法が紛らわしいが、このような象徴主義はラカン的に言えば「想像的」なものでしかない。他方、デュシャンは、色というのは名に過ぎない――構造主義言語学で言うような差異的な記号でしかないという唯名論的な立場から、そのような象徴主義を否定する。それこそがラカンの言う「象徴的」な次元に立っての切断である‥‥。 |
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私はド・デューヴのラカン的ドグマをそのまま受け入れるものではないが、デュシャンの唯名論に関する分析自体は正しいと思う。他方、カンディンスキーについてはどうか。たしかに、画家自身が神秘主義的な傾きをもつ象徴主義を唱えていることは事実だ。しかし、彼の作品をそれだけに還元することができるのか。色が響きをもつとすれば響きも色をもつべきだ――そう考えて、オーロラのようにゆらめく音楽を作曲するばかりか、多色光を放つ色彩オルガンまで考案したのは、ロシアの作曲家スクリャービンだった。彼は、山田耕筰のような作曲家のみならず、神原泰のような画家にも影響を与え、現にこの画家は「スクリアビンの『エクスタシーの詩』に題す」(1922年)のような絵を描いている(東京国立近代美術館で先に開かれていた「未完の世紀」展に出品されていたこの作品は今は出ていないが、かわりに「あるペシミストの手記A(No.6)」(1929年)が常設展に含まれているので、ベッタリと塗られた絵具の濃密な色彩からもうひとつの作品のトーンを類推することができるだろう)。こうした音楽や絵画に見られるものこそ、まさしく「想像的」な象徴主義ではないか。実のところ、カンディンスキーもスクリャービンに興味を持ち、一号だけに終わった『青騎士』年鑑(1912年)でサバネイエフのスクリャービン論を自らロシア語からドイツ語に訳したりもしている。だが、彼にとって真に重要な音楽家はシェーンベルクだったこと(『青騎士』年鑑にはシェーンベルクら新ウィーン楽派の作品の楽譜が掲載されている)を思い起こさねばならない。やはり象徴主義の圏域から出発したその音楽が抽象的な構造化に向かったように、カンディンスキーの絵画もまた「想像的」な象徴主義に固着することなく、抽象的な構造化に向かうヴェクトルを最初から潜在させていたように思われる――それがデュシャン的なノミナリズムに行き着くことはもとよりありえないとしても。 |
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なお、ド・デューヴの本の問題の章に関して、松岡新一郎が『批評空間』III-3号に批判的なコメンタリーを寄せている。たんなる書評というより、この本をきっかけとしたエッセーと言うべきものなので、ないものねだりかもしれないが、書評として見るかぎり、先に触れたようなド・デューヴの主要な論点の要約とそれに対する明確な評価が欠けているので、いささか物足りない印象を禁じ得ない。また、そこで展開される色彩と言語の関係についての議論も、さほど本質的なものだろうか。構造言語学では、たとえば色彩なら色彩を取り上げ、[1]連続体としての色彩が分節されて[2]名をもった色の配列ができるが(ただし、[1]は、初めにあるというより、[2]から遡って見出されるものにすぎない)、その分節は恣意的なので[2]でいう個々の色は他の色との差異の束でしかないと考える。そこで連続体という場合、[1a]なまの色彩知覚の連続性を考えるか、[1b]科学的に虹のスペクトルのようなものを考える(もちろん、そういう一次元の連続体のみならず、波長以外のパラメータを加味した多次元の連続体を考えてもよい)かは、確かに違う。その意味では、「シュヴルールの理論がどの程度、『ソシュール的』という言葉を待たずして『ソシュール的』なものであり、色彩を『言語的』に扱う形式的条件を明らかにするかが分かる」というド・デューヴの記述は、松岡新一郎が示唆するとおり、シュヴルールの実証主義的アプローチ[1b]とソシュールの構造主義的アプローチ[1a]を不用意に混同するものと言えるだろう。しかし、要は、連続体が恣意的に分節されて差異的なシステム(たとえば色彩の)ができるということなのであって、そこでは[1a]と[1b]の差異はそれほど重要な問題であるとは思われない。 |
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繰り返すが、ド・デューヴの本の問題は、そういう構造言語学とも対応する唯名論をもってデュシャンが「象徴的」な次元に到達したのに対し、カンディンスキーは「想像的」な次元にとどまっているといった裁断を、ラカン派精神分析の無批判な援用によって行なっている点にある。その上でいえば、この本がきわめて精密な論理によって組み立てられた力作であることは認めなければならない。それは正面からの厳密な批判に値するはずであり、そのような批判はいまだ書かれるべくして残っている。 |
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*カンディンスキー/コジェーヴ |
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もうひとつ、哲学に興味のある読者のために、カンディンスキーとその甥の関係について触れておこう。甥とは、アレクサンドル・コジェーヴニコフ改めコジェーヴ(1902−1968)のことだ。この二人の1929年から1944年にいたる往復書簡の仏訳がポンピドー・センターの近代美術館の『カイエ』の別冊(1992年)に掲載されている。冒頭に置かれたコジェーヴの1929年の書簡の、伯父の最近の作品が「14〜15年の作品」より弱く見えた(ただし、見直して重要性がわかった)という挑発的な書き出しはなかなか面白いが、往復書簡そのものは内容が豊かとは言いがたい。ただ、同時に掲載されたコジェーヴの1936年の仏語草稿には一言触れておく価値があるだろう。題して「カンディンスキーの具体的(客観的)絵画」。抽象絵画が具体的・客観的というのはいったいどういうことか? コジェーヴによればこうだ。木なら木を描いた具象的絵画を考えよう。木は具体的・客観的な存在だが、木を描く画家はそこから自分に感じられる美を抽出(=抽象)して表現する。このように、具象的(再現表象的)絵画は抽象的・主観的である。他方、カンディンスキーが1910年から描いている非具象的絵画は、対象と独立にそれ自体として存在する実在的宇宙であり、したがって具体的・客観的である。それは、木がそうであるように、「私」なしに生成する。確かにそれは「カンディンスキーによる絵画」ではあるが、「カンディンスキーの絵画」ではないのであり、最終的にはカンディンスキーという名前を抹消してたんに「絵画」というべきものなのだ……。コジェーヴがここに見ているのは、いわば、人間の消滅の時点における芸術なのである。(ちなみに、第二次世界大戦後になって、コジェーヴは、アメリカ的動物化のなかに人間的活動としての芸術の消滅を、他方、日本的スノビスムのなかに人間的な意味を欠く空虚な形式としての芸術の存続を見ることになるだろう。) |
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コジェーヴと言えば誰でも思い出すのは、決して正確とは言えない、しかし独特の歴史的緊迫感をもったヘーゲル読解――とくに「歴史の終焉」についての解釈(アラン・ブルームを通じてフランシス・フクヤマにまで影響することになる)だろう。それについて詳しく述べる余裕はない。だが、歴史がいよいよ「終焉」に近づきつつあるというコジェーヴの認識は、美術史の先端でついに抽象にまで到達した伯父の絵画に触れた体験と、けっして無関係ではないのではないか。 |
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*カンディンスキー/カッチャーリ |
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最後に、ほんのついでではあるが、最近来日し、ヨーロッパ哲学の伝統を安易に手放さない立場ゆえにむしろ緊張に満ちた対話の可能性(まだ可能性でしかないものの)を感じさせたマッシモ・カッチャーリが、『法のイコン』(これは「図像化禁止の法の図像[イコン]」を含む限りで逆説的なタイトルだ)で展開している、哲学的な抽象美術論に触れておこう。この本の第二部では、マレーヴィチがフロレンスキイのイコン論(邦訳として『逆遠近法の詩学』[水声社]がある)との関係で、モンドリアンがブローウェル(ブラウアー)の数学基礎論における直観主義・構成主義との関係で、クレーがライプニッツのモナドロジー(ただしライブニッツ自身の定式を超えて脱予定調和化され、いわばリゾーム化されたものとしての)との関係で、綿密に論じられる。カンディンスキーは、主観的な象徴主義の残滓ゆえに、マレーヴィチ的なイコン(黄金のイコンに逆説的に対応するものとしての黒い正方形)にまでは到達できなかったという形で、否定的に言及されているにすぎない。とはいえ、抽象芸術と精神的なものとの関係を、たんに神智学や人智学の影響を指摘するといった美術史的な知見を超えたところで展開してみせるカッチャーリの議論は、いささか思弁的に過ぎるとはいえ、カンディンスキーがその絵に託そうとしたヴィジョンを理解する上でも、さまざまなヒントを与えてくれるだろう。 |
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以上は、カンディンスキー展をきっかけに思いついたいくつかのポイントをアト・ランダムに記したメモに過ぎない。気が付いてみれば、脱線に脱線を重ねて、ずいぶん遠いところまで来てしまったようだ。繰り返して強調しておきたいのは、この展覧会で見るカンディンスキーの1910年前後の作品がそれ自体として素晴らしかった――少なくとも私自身にとって意外なほど面白かったということだ。カンディンスキーを特権的な画家とは思わないにせよ、その「可能性の中心」を考え直すために、一度は足を運ぶ価値のある展覧会であると言っておきたい。
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