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自らの価値を示すのが批評であり、その価値が生成される場所を明らかにするのが批評家であると考えるなら、この本の以下の書き出しにおいて柄谷氏は、自らの価値が生成される場所を明らかにし、批評をはじめることを宣言している。『初期論文集』で扱われている問題は、以下の「思想はいかに可能か」の書き出しにおいて二五歳の柄谷氏が示した批評の光源から描き出されている。 |
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「すべて思想の名に値する思想は自己の相対化されるぎりぎりの地点の検証から始まっている。あるいは、思想家は自己を相対化してしまう現実の秩序と生活の地平に耐えねばならぬという恐ろしさを見極めようとする所からのみ生まれる、といってもよい。」(「思想はいかに可能か」)
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ここでいう「現実の秩序」と「生活の地平」は逆立ちした関係を結び、思想家を不可避に相対化してしまう世界を構成する。この世界の中で「(思想家が)耐えねばならぬという恐ろしさ」を検証するところに、柄谷氏の批評の光源がある。 |
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現実の秩序とは、生活の地平に生じる「個人の幻想」を空間的に相対化し、それを「私的な現実(ロマン派的現実)」に変えるものである。生活の地平とは、現実の秩序からの疎外感として生じる「個人の幻想」を時間的に切断して、それを「私的な幻想(キリスト教的幻想)」に変えるものである。つまり現実の秩序が生活の地平を取り込む限り「個人の幻想」は相対化され、生活の地平が現実の秩序から乖離する限り「個人の幻想」は孤立したものになる。この二重の条件の下で個人の個体性(=単独性)は私性(=個別性)へと転化する。 |
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現実の秩序と生活の地平の対は、この本に収録されている論文のそれぞれの言葉でも言い換えることができる。「思想はいかに可能か」の現実と幻想。「新しい哲学」の社会革命と政治革命。「「アレクサンドリア・カルテット」の弁証法」の批評性とロマネスク。「「アメリカの息子のノート」のノート」の意志を超えた構造と個別的な意志。「自然過程論」の自然過程と意識過程。「現代批評の陥穽−私性と個体性」の知覚作用と想像作用。「サドの自然概念に関するノート」の現実的侵犯と書くことによる侵犯。何れにしてもこれらの二項はただ対立するのではなく、対立すると同時に相補的なものとして描かれている。 |
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柄谷氏の著作に馴染みのある読者ならこのように対となる二項を取り出し、差異としての場所=批評の光源からその関係を明らかにする手法に既視感を覚えるだろう。上記の二項は、客観と主観、相対と絶対、偶然と必然、類的本質と個別性、近代と前近代、資本制と封建遺制、或いは構造と力といった言葉にも置き換えることができる。これは柄谷氏の批評文の抽象化(対象化)の手続きに典型的であり、『初期論文集』だけでなくその後の著作にも繰り返し現れる手法である。この手法をポスト・モダン的と言ってもいいし、脱構築的、超越論的と言ってもいい。ただ重要なのはこれらの二項が直接的な関係を結ぶのではないということである。上記の二項の対は何れも止揚されることはなく、恣意的な関係を整合する第三項を媒介として間接的に関係する。「思想はいかに可能か」を『トランス・クリティーク』の後で読んでも新鮮なのは、柄谷氏が、現実と幻想が逆立ちした関係において、幻想と現実の間に不可避に生じる第三項の問題を、「成熟」の問題として考えているからである*[1]。 |
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処女論文「思想はいかに可能か」において柄谷氏は、三島由紀夫(明晰)、吉本隆明(自立)、江藤淳(成熟)の思想様式が現実の秩序と生活の地平が逆立する関係の中でいかに可能だったかを分析している。ここでは個人の思想は相対化され、孤立することを不可避に強いられる。ここに生じる苦悩を実存的に抽象化し、思想の臨界を生きたのがこの三人の文学者であるという。
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大雑把にまとめれば、三島は自己の幻想を現実の秩序に還元し、吉本は現実の秩序から切り離した自己の幻想を幻想的に止揚し、江藤は自己の幻想と現実の秩序の二律背反的緊張関係を生きる。何れにしてもこれら三人は自己の幻想と現実の秩序の間に生じる葛藤をそれぞれの仕方で抽象化することでその関係の矛盾を体現する。ただ幻想と現実の関係に注目すれば、他にもう一つ演繹可能な思想様式があることがわかる。それは「現実の秩序をそのまま体現する」という思想様式である。しかし現実の秩序と生活の地平が逆立する関係において、現実の秩序をそのまま体現することは欺瞞であり不可能である。 |
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「現実の秩序をそのまま体現する」とは、「個人の幻想」を払拭して「現実の個人」となることである。しかし「個人の幻想」とはそれ自体が思想の条件であるから、これを払拭して「現実の個人」となることは思想の条件を否定することと同義であり、幻想を持つ自己を「幻想の個人」とみなすことと同義である。これは物自体の世界に生きる者の謂いである。物自体の世界においては現実の秩序と幻想の区別は存在しないから、「現実の個人」はそのまま「幻想の個人」となる。つまり現実の秩序を体現する「現実の個人」は、現実と幻想の逆立する関係を拒絶し、現実の相対性に留まり、またそのまま「幻想の個人」となることで、現実の絶対性に留まるのである。 |
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「如何なる「相対主義」もたちまち根拠を剥奪される程に厳しく自己の存在を問いつめられる筈である」、「ある思想が絶対を主張し、他の思想が絶対を主張するという所で決戦が行われたためしは一度もない」と柄谷氏が述べるのは、このように「現実の個人」や「幻想の個人」の存在自体が不可能であり、「現実の相対性」と「幻想の絶対性」の両極をそのまま体現したかのような思想が欺瞞であり不可能であることを明らかにするためである。人間が現実の秩序と生活の地平が逆立する関係の中で生き、「自己を相対化してしまう現実の秩序と生活の地平に耐えねばならぬという恐ろしさ」を生きなければならない限り、「現実の秩序をそのまま体現する」という「四番目の思想様式」を採ることは欺瞞であり不可能である。 |
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ただ三島、吉本、江藤の三人が、自己の幻想より出発し、現実と幻想の間の苦悩を対象化したことが、「四番目の思想の不可能性」を明らかにした、と考えることはできない。こう考えると遠近法的な倒錯に陥ってしまう。「四番目の思想の不可能性」が思想家に疎外感をもたらし、そこに幻想をもたらす。そして思想家によってこの幻想が受動的な苦悩(受苦性)として対象化(抽象化)された時、三つの思想様式が生まれるのである。つまり思想家に幻想をもたらし、三つの思想様式を可能にしたものこそが、「四番目の思想の不可能性」である。この逆は真ではない。だから「四番目の思想の不可能性」、すなわち三つの思想が分化される前の「不可能性」が、三つの思想が分化された後の「可能性」をもたらすのである。 |
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「四番目の思想の不可能性」とは、言い換えれば三つの思想が出会う「他者の思想様式」である。ここで思想家が対象化する受苦性とは、「他者(の思想)との関係に宿る受苦性」である。つまり三島・吉本・江藤の三人は、「共通の他者」との関係において、三通りの仕方でここに宿る「受苦性」を対象化したのである。彼らが「自己の欠落を残る二者に見出すことによって互いに寛大」であったのは、残る二者に「自己の欠落」を見出すだけでなく、そこに分化以前の「共通の他者との関係」を見出していたからである。柄谷氏は、彼らが「共通の他者との関係」において対象化した受苦性を、対象化された後の「可能性」においてではなく、対象化される前の「不可能性」に遡行することで考えている。つまり柄谷氏は三人の受苦性が対象化され、三人の思想が分化される起源に遡行することで、三人の思想を同時に展開する視座を獲得しているのである。だから柄谷氏が「思想はいかに可能か」をどこから書いたかと問うならば、「三人の思想家が、共通の他者との関係に宿る受苦性を対象化する起源」から書いたと応えることができる。これは三人の思想家の「価値が生成される起源」であり、「三人の未分化の批評の光源」である。「思想はいかに可能か」において柄谷氏は自らの批評の光源をここに重ねている。 |
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しかしここで柄谷氏は「三人の思想家の後を生きる自身にとって、なぜこの不可能性への遡行が不可避なのか」と問うことはない。つまり「三人の思想が分化される前の不可能性が、なぜ三つの思想が分化された後において自らの可能性となりうるのか」と問うことはないのである。ここで柄谷氏が行っている、三つの思想の分化以前の「不可能性」への遡行は、三つの思想の分化以後を生きる柄谷氏の自身の思想の「可能性」について考えることを不可能にしてしまう。だから私たちが問うべきは「三つの思想の分化前の不可能性は、分化後を生きる私たちの可能性としていかに可能か」ということである。これは「明晰」と「自立」と「成熟」の思想が分化される以前に出会った「共通の他者」を、分化された以後においても「共通の他者」として考えることと同義である。 |
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最初の論文の書き出しにおいて、自らの批評の光源を明らかにしてみせる柄谷氏の手法は、一見すると大胆なものに見える。しかし上述の文脈から考えれば、この書き出しは、三人の思想の「(分化以前の)不可能性」へ遡行し、三人の思想と同じ「未分化の批評の光源」に立つことで、三人の思想の「(分化以後の)可能性」を問うことを、自らの問題として回避する、極めて慎重な手続きであることがわかるだろう。もし柄谷氏が、極めて無駄が少なく、計算し尽くされた筆致で、三人の思想の「(分化以前の)不可能性」に「自らの批評の光源」を重ねるのではなく、三人の思想の事後を生きることの緊張で震える、危う気な筆先で、三人の思想の「(分化以後の)可能性」を「自らの価値」として描いていたなら、印象は違っただろう。
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「思想はいかに可能か」の書き出しの一節において明らかにされた、柄谷氏の批評の光源=未分化の批評の光源は、その後において繰り返し上演される「不可能性から可能性への逆転劇」の舞台となるフィールドを煌々と照らしている。しかしこの逆転劇は必ずしも逆転勝利として約束されているわけではない*[2]。『初期論文集』の読者が「本当にこの逆転劇は不可避のものなのか」と問うなら、三島、吉本、江藤の三人で塁の埋まる、一打逆転サヨナラの場面で、マウンドに上り、打席に立つ柄谷氏と対決することができるはずである。この時、読者が果たすべき課題は二つある。第一に、この「思想はいかに可能か」を書いたルーキーの柄谷氏を抑えること、第二に、現在において満塁男*[3]
の異名を取るベテランの柄谷氏と、打たれる覚悟で全力の対決すること、である。『初期論文集』を『トランス・クリティーク』の以後に読むスリルと緊張は、この満塁の場面で二人の同じ打者と対決することにある。*[4] |
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しかし相手を意識して逆転されることを恐れるあまり、「三つの思想の分化前の不可能性は、分化後を生きる私たちの可能性としていかに可能か」と問うことが、私たちの課題であることを忘れるべきではない。つまり柄谷氏を抑えることができるかどうかに拘わらず、この課題はスリー・アウト目の課題として、マウンドに上がる私たち自身の問題として課せられるのである。この自覚なしには、ワン・アウトも取ることは出来ないはずである。しかしマウンドに上がらないことには何もはじまらない。そのためにも、この『初期論文集』をぜひ手に取って読んで頂きたい。 |
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