Critical Space Archive

「精神分析」を回避することの困難さについて
ラカン理論と社会学
 20世紀が精神分析の世紀であった、とは良く指摘されるところではある。それでは21世紀はポスト精神分析の世紀ということになるのだろうか。おそらくそうであり、またそうではない。どういうことか。治療の場面における精神分析の直接的な有効性そのものは、今後もゆっくりと衰退していくに違いない。しかし「精神分析的言説」の有効性は、まさに様々な社会事象において、いっそう徹底した形で実現されるであろう。
 急いで注釈しておくが、私が「精神分析」と言うときは、ほぼフロイト/ラカンによって拓かれた言説空間のことを意味している。もちろん留学も教育分析(パス passe)の経験もない私がラカニアンを気取るわけにはいかないが、この言説の強さに対抗して、体系的にこれを論駁し得た言説はいまだかつて存在しない。デリダやドゥルーズらの過激な反駁も、結局はラカンへのゲリラ戦において局所的勝利を収め得たに留まる。むしろ現在最もラカン派を脅かすのは、精神分析家ならざるスロヴェニア出身の哲学者、スラヴォイ・ジジェクの存在だろう。彼はラカンの言説をあたかも社会学のそれであるかのように換骨奪胎し、人々にもそう信じ込ませることに成功した。彼はラカン理論――ただし、よりいっそうヘーゲル化された――の徹底した援用によって、政治から映画に至るまで、ありとあらゆるものを「正しく解釈」してみせる。その暴力性と生産性はあまりにも徹底しているため、ラカンがみるみる消費され陳腐化されてしまいかねない危惧をおぼえるほどだ。しかし、そうしたジジェクの発言は、これまた良く指摘されるように、あらゆることを説明可能だが、どこか閉じた理論的円環への回収を反復しているような印象をももたらす。
 もちろんそうした「ラカンの濫用」に対して、正統的なラカニアンたちは抵抗し続けるだろう。そう、それはまさしく精神分析的な「抵抗」であって、さしあたり批判や批評にはなり得ていない。ラカニアンがいかにジジェクの存在に脅威を感じているか、それを如実に示すのが、彼らがしばしば口にする「あんな判りやすいものは、ラカンではない」という常套句だ。これほど端的な「否認」の事例は、臨床現場でも最近はあまりみかけない。
 精神分析家・十川幸司氏の「精神分析への抵抗 ジャック・ラカンの経験と論理」(青土社、2000年)は、現時点でのラカンの可能性と限界を明晰に描き出したという点では近年出色の著作である。本書で十川氏は、精神分析の社会学への近縁性について述べている。フロイトはその膨大な業績の中で、なかばは手すさびのような社会学的論文をいくつか遺している。それはしばしば精神分析家たちによって無視され否認されてきた。
 しかしラカンは、こうしたフロイト理論の社会学的な側面をいっそう徹底して拡大し展開した。とりわけ60年代後半――より正確には1964年にラカンがSFP(フランス精神分析学会)から破門され、あらたにEFP(パリ・フロイト学派)を創立して以降――のラカンの言説は、近年アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモンらによって批判(『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』岩波書店、2000年)されたように*[1]、かならずしも正確ではない数式や位相幾何学の導入を図るなど、きわめて思弁的なものに変質してしまった。その結果、彼の言説は当初のインパクトや生産性からむしろ遠ざかってしまった。これが十川氏の批判の骨子である。
 ほんらい精神分析は、単なる治療のための技術体系ではない。フロイトもラカンも精神分析の科学性を高らかに謳ったが、フロイトは自然科学に範を求めたのに対し、ラカンは言語学的な厳密性を「科学」の何よりの証と考えていた。もちろん精神分析は、通常の意味での自然科学たりえない特性を数多く持っている。とりわけ精神分析体験の単独性は、もっとも通常科学らしからぬところで、この単独性ゆえに、精神分析には厳密な意味での再現性も予見性も期待することが出来ない。
 十川氏によれば、精神分析が真に生産的足りうるのは、あくまでも臨床場面において不可能なものの抵抗に出会い、そこにおいて経験的次元と超越論的次元の「絡み合い」が生ずることによる。単なる思弁は、それが決して抵抗に出会わず、それゆえ単に超越論的なものでしかありえないがゆえに、無効なものとみなされる。そして、後期ラカンの思考の少なくとも一部は、このような意味で、過度に超越論的なものとして生彩を欠くことになったのである。
 現在なされている「ラカン理論」の社会学的応用は、まさに単独の主体からの抵抗にけっして出会うことなく展開し、一定の切れ味ともっともらしさを反復しながらも、さしあたり有意味な生産性をもたらし得ていない。ただし、このような逆説は至るところにある。たとえばラカニアンの著作のかなりの部分が、いまだ「ラカン理論」の解説か自己流の解釈にとどまっているという事実。この種の著作に比してラカン派臨床の現場をリアルに伝えるような事例報告は、皆無とは言わないまでも圧倒的に少ないのだ。十川氏自身にも学会発表などを除いては、そのような試みはほとんどみられない。
 なぜ多くの「正統的」ラカニアンは、個別の事例を解釈せずに、えんえんとラカン理論の精読と注釈に腐心し続けているのか。もちろん彼らにも言い分はあるだろう。いまだかつて厳密な意味での精神分析的実践がなされたことのないこの国において、啓蒙的段階はまだ終わっていないのだ、等々。あるいはまた、十川氏の最近の論文によれば、後期ラカンは臨床実践のためと言うより、むしろ純粋に教育分析のための理論構築をしたのであるという(『概念の思考』批評空間III-1、2001年)。そうであるなら、「ラカン派臨床」の困難さは、むしろ本質的に不可避な問題ということになる。
 しかし私は、それでも日本のラカニアンたちによる、それこそジジェク的なものをも含む、多様な「事例」への無節操なまでの応用を待望している。というのも、この国においてすら、ラカン的な言説そのもののインパクトは、すでに消費され飽きられつつあることを危惧しているからだ。もはや輸入と紹介の段階は終わった。そう、「ラカン」のインストールは完了したのだ。いまや、この比類なき解釈装置を再起動し、その有効性と限界とが真に問われるべき時なのではないか。

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▲ ラカン理論と社会学
▼「欲望の科学」としての精神分析
▼「ポストモダン」への懐疑
▼「精神分析」の応用可能性

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