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 あまり誰も言っていないようなので書いておきたいと思う。
 「ハリウッド映画みたい」という言葉が氾濫した。だが、これは、映画研究の片隅にいるものにとって、どうにも腑に落ちない物言いであったととりあえずはいわざるをえない。いやというほど垂れ流されたWTCの爆撃映像は、ハリウッド映画をかたちづくる基本的な映像文法とはほど遠いものであったからだ。望遠レンズでの撮影、固定したカメラ、長いロングテイクで、編集(カット)の全くない映像、それらはむしろ単純素朴に非ハリウッド映画的な映像というべきではないのかという疑念が目から離れなかったのである。
 だから、「ハリウッド映画みたい」という印象を素朴に信望して、これまた素朴なアインデンティ・ポリティックスと結びつけ、CNNの偏った映像報道にしかすぎないと言った社会学者のコメントをみても、あるいはまた、「ハリウッド映画みたい」という表現に過剰に感情的に反応して、映画は代理体験に過ぎないだの、ハリウッド映画の物語想像力には良いものと悪いものがあるだのと批判なのか擁護なのかわかない逡巡をする映画学者の言葉を読んでも、ピンとこなかったというのが筆者の感想だったのである。

 とはいえ、相当数の言葉がそれを「ハリウッド映画みたい」と語りつづけたのであってみれば、そこにいかほどの分析的根拠もないと単に言い立ててもあまり有益な振る舞いとはなるまい。そもそも、筆者自身、「ハリウッド映画のようなもの」がそこに在ったと感じてしまったのも確かであり、映画文法論的主張を強弁するだけでは、あの、奇妙な映像体験について何事も語ったことにはならないようにも思えるのだ。ハリウッド映画の文法に明らかに従っていない映像であるにもかかわらず、それでもなお人は「ハリウッド」という名を漏らさずにいられなかった、そのような奇妙な既視感の意味するところとは何だったのだろうか。
 これを例えば、物語を語る文法の構築とスペクタクルな映像の創出の、双方に関わってきたハリウッド映画の蓄積の歴史という(筆者もハリウッド映画史を語る際使ったこともある)解釈図式によって説明してしまうことは、ミスリーディングであろう。スペクタクルな映像というのは、虚構性、もしくは被写体との安心感のある距離感に担保を預けているからこそ自己を提示しうるという大原則が、夢を売るハリウッドには必須だからである。狼狽するばかりのナレーターの声の調子だけではない。映し出されたものには、「ハリウッド映画」に組み込まれているはずの虚構の安心感あるいは安心感の虚構といった類のものはいささかも嵌め込まれていなかったのである。そうではなく、むしろ、あの奇妙な既視感には、視覚経験が折り重なってできた歴史の大きな重層のうねりが現出していたように筆者には思える。
 ひとつの手立てとして、ハリウッドという場所と愛憎交じり合う関係を続けてきた、映画監督ロバート・アルトマンが事件直後に発したコメントが参考になるかもしれない。こんなことは、ハリウッド映画が存在しなかったら誰も構想しなかったはずだ、アルトマンはそう語ったそうだ。
 ハリウッド映画が、その資本力のグローバルな展開と共に、数多くの国々の日常に入り込み、人々の想像力を刺激してきたことは20世紀の歴史の紛れもない事実である。生活スタイルの諸局面から恋愛の振る舞いの仕方にいたるまで、人々が「ハリウッド映画」に倣いその生に取り込んできたといえる事象を指摘することはそれほど困難なことだろうか。虚構をそのまま人は模倣するというアホな考えをいっているのではない。そのような発想は、そのもともとの主唱者である社会学でさえ当の昔の葬り去っている。幾重にも重層して走るコミュニケーション回路のなかで、物語的な思考様式も重要な一端を担っているという判断から指摘しうるといっているのである。そして、その事情は、言語の領域だけではなく、映像の領域においても変わらない。様々なレベルで醸成された視覚的想像力が、何かを構想し現実化する際に効力をもったというのは大いにありうることなのである。だから、発案され計画され遂行された航空機による爆破という、とてつもないプロジェクトはそれ自体において、すでに「ハリウッド映画」的だったというアルトマンのコメントには、映画関係者がゆえのいつもの大言壮語だといって片付けてしまえないものがあるのだ。とすれば、カメラが映し出す以前にそれが「ハリウッド映画」的だったとすれば、TVの前でわれわれが目にしていたものは、「ハリウッド映画」のようなものが、非ハリウッド的な映像において伝えられたという、ねじれた視覚の光景だったということになる。つまりは、奇妙な既視感が奇妙であったのは、二重化された視覚経験、いわば視覚的な齟齬感にふいに人が襲われたからではなかったのだろうか。
 だが、あの奇妙な既視感は、バーチャルなもののねじれたリアリティ化といった、ただそれだけのものであったとも言いがたい。ハリウッド映画をはじめとするメディア産業が、巨大化し多国籍化し地球を覆い尽くしていくなか、現実もシミュレーション化し、その窒息する閉塞感のなかで、最終的に「内破」を迎えるだろうと啖呵を切ったのはボードリヤールだが、その一例として9・11を了解するのは、過度に思弁的な身振りにはなりはしないかと危惧されるからである。ハリウッド的なものの視覚的な二重化という視点も、「仮想現実」をめぐる形式論の方向へと収束させてしまうと、必要以上に抽象的な判断となってしまうだろう。むしろ、ここでしっかりと看て取られておくべきは、ハリウッドが推し進めた視覚的想像力が現実化されるとき、個別のケース毎にとてつもない落差があり、故に、そのような事態は決して一枚岩なパーズペクティブに回収されるものではない、という今日的状況の現実性ではないだろうか。齟齬と感覚は、大風呂敷に広げた理論的な思考からではなく、徹底した、差異へ感受性においてこそ接近されるべきはずなのである。

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