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一つの書物が時代状況によって当初とは違った意味を帯びてくることを、他人の書物にかんしてはしばしば感じているが、それが自分の著作にもあてはまることを経験したのは本書が初めてだった。というのも、自分の書いたものを或る客観性をもって読むということは、当人の意志だけでは不可能だからである。私は以前に書いたものを読み返して検討するぐらいなら、何か新しいことをやったほうがましだと思い、事実そうやってきた。しかし、この本に限っては、再考することを強いられたのである。それは日本で出版されてから十年後に、英語に翻訳されたときである。その英訳の草稿を読んだとき、私ははじめて自分の本を他者の本のように読んだ気がした。そのとき、この本で書かれていること――言文一致や風景の発見など――が、根本的にネーション=ステートの装置にほかならないことを発見した。さらに、たとえば夏目漱石が英文学に感じていた違和が、19世紀以後における文学、特にリアリズム小説の優位性への違和にほかならないことを発見した。そこで、私は英語版の出版にあたって、「ジャンルの死滅」という一章を加え、長い後書きを付した。 |
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韓国で翻訳するという話があってから、私は新たに本書について、というよりも、本書が扱っている時代について考えさせられた。すると、1970年代後半に本書を書いたとき考えていなかった様々な事柄が噴出してきたことに我ながら驚いた。いわば、「日本近代文学の起源」は「近代日韓関係の起源」にほかならないのである。それについて述べる前に、私自身が70年代に本書に収録されたエッセイを書いていたとき考えていたことをふりかえっておきたい。私は明治文学の研究者ではまったくなかった。私がこのとき考えていたのはむしろ同時代日本の知的状況であって、それを明治20年代に遡行して考えようとしたといってよい。 |
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私が意識していた問題の一つはこうである。当時は、1960年代からの急進的な政治運動が破産し、その結果として、「文学」に向かうということが生じていた。あるいは「内面」に向かうことによって、あらゆる共同幻想から「自立」することが可能であるかのように考えられていた。これが実際にはラディカルなポーズをした保守主義にすぎないということは、その後に実証されている。私はその傾向に反撥を感じていたが、たんに「政治」をいうことによってそれを否定することはできないと思った。もっと根本的な批判が必要だった。私が気づいたのは、それが明治20年代から繰り返されてきたということである。 |
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たとえば、日本の標準的な文学史では、坪内逍遥が『小説神髄』で「勧善懲悪」を否定し近代文学の理念を確立したことになっている。しかし、それは実はきわめて政治的な立場からなされていたのである。「勧善懲悪」とは、徳川時代の儒教的文学ではなく、明治10年代に自由民権運動と直結して書かれていた大量の「政治小説」の傾向を意味していた。坪内逍遥がいう近代文学の「神髄」は、そのような「政治」から自立することである。しかし、現実には、自由民権運動は挫折していたのであり、そのかわりに外形だけの憲法や議会が与えられたのである。明治20年代の近代文学は、自由民権の闘争を継続するよりはそれを軽蔑し、闘争を内面的な過激性にすりかえることによって、事実上、当時の政治体制を肯定したのである。1970年代にはそれが違った文脈で反復されていた。私が「起源」に遡って批判しようとしたのは、このような「文学」、このような「内面」、このような「近代」であった。 |
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しかし、1980年代に入ると、消費社会の現象とともに、ポストモダニズムが風靡した。本書もそのような風潮を代表するものとして読まれた形跡がある。が、一見して似ているように見えて、私が本書で意図したことと、この種のポストモダニズムほど対立するものはない。私は1984年に「批評とポストモダン」という評論を書き、日本的ポストモダニズム(近代の超克)に敵対した。その結果、私は近代主義者に転向したかのようにいわれたのを覚えている。実際、私は典型的な近代主義者として嘲笑されていた政治学者丸山真男を読み返し、評価したりした。しかし、それは近代主義を支持したからではない。たとえば、彼はかつて『日本の思想』の中で、つぎのような中江兆民の言葉を引用している。 |
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| 吾人が斯く言へば、世の通人的政治家は必ず得々として言はん、其れは十五年以前の陳腐なる民権論なりと、欧米諸国には盛に帝国主義の行はれつつある今日、猶ほ民権論を担ぎ出すとは、世界の風潮に通ぜざる、流行遅れの理論なりと。――然り是れ理論としては陳腐なるも実行としては新鮮なり、箇程の明瞭なる理論は欧米諸国には数十百年の昔より実行せられて、すなわち彼国に於は陳腐となり了はりたるも、我国に於ては僅かに理論として民間より萌出せしも、藩閥元老と、利己的政党家とに揉み潰されて、理論のままに消滅せし故に、言辞としては極めて陳腐なるも、実行としては新鮮なり、夫れ其実行として新鮮なるものが、理論として陳腐なるは果して誰の罪なるか(『一年有半』明治34年版付録) |
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丸山真男がいいたいのは、近代主義・市民主義がいかに陳腐であろうと、日本では近代も市民も実現されていない以上、今なお新鮮である、ではそれを陳腐に見えさせているのは誰の罪か、ということだ。実行されていない理論は陳腐にみえても新鮮である、という中江兆民の言葉は、私にとっても「新鮮」であった。兆民がこう書いた時期にはニーチェ主義のような「理論」が流行していたが、それらがもう読むに耐えないのに、兆民の言葉はなぜ新鮮なのか。それはルソーにもとづく彼の「民権」の理論のせいではない。兆民の言葉が新鮮なのは、それが「批評」の言葉だからだ。批評はそれ自体理論とは違っている。それはむしろ理論と実行の懸隔、思惟と存在の懸隔への批判的意識である。私は本書においてデリダやフーコーの理論的影響を受けているが、それらがフランスでもつ批評的役割と、日本でそれらがもつ意味とを混同したことはない。したがって、私は日本におけるデリダ主義やフーコー主義の軽薄な「流行」に異議を唱えたのである。 |
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ところで、私がここで特に中江兆民の文章を引用したいと思ったもう一つの理由は、それが私が本書において書かなかった事柄に直結しているからである。つまり、彼がいう「十五年」の間に、「日本近代文学の起源」が潜んでいる。彼がこれを書いたのは、1898年、つまり朝鮮に対する日本の帝国主義的干渉を契機にしてはじまった日清戦争の四年後だった。その当時、新しい「理論」とは、帝国主義を支える「優勝劣敗」の社会的ダーウィニズムである。「十五年」前に「民権」を唱えた人たちがその時点では一斉に転向していた。いいかえれば、かつての民権的ナショナリストはこの時期、帝国主義的ナショナリストに転化していたのである。 |
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その場合、近代文学はどうであったか。私は本書において、国木田独歩の「空知川の岸辺」(1902年)をもとにして、「風景の発見」について書いた。それは、「風景」が、外界に関心をもたぬ「内的人間」によって倒錯的に見いだされたこと、また、それまでの文学言語におおわれた所ではない新世界、北海道において見いだされたことを指摘するものだった。しかし、実は、独歩は1895年に北海道への移住を計画したけれども、わずか二週間ほど空知川のあたりに滞在したにすぎない。したがって、北海道での体験が独歩を変えたということはできない。むしろ、彼が北海道への移住を真剣に(且つ軽薄に)考えたこと自体が重要なのである。 |
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独歩が北海道への移住(移民)を考えたのは、その前年の日清戦争に従軍記者として参加したあとである。ナショナリズムの昂揚の中で、彼は人気を博したが、戦争が終ると虚脱状態に陥った。彼が北海道に想像したのは、その空虚を満たすような「新世界」である。彼は原野の中でこう感じたと記している。《社会が何処にある、人間が誇り顔に伝唱する「歴史」が何処にある》。しかし、いうまでもなく、空知(ソラチ)という地名が示すように、そこにはアイヌが居住していたのだ。それは充分に「歴史」的空間である。国木田独歩による「風景」の発見は、そのような歴史と他者を排除することによってなされたのである。このとき、他者はたんに「風景」でしかありえない。日本の植民地文学、あるいは植民地への文学的見方の原型は、独歩においてあらわれている。 |
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さらにいうと、日本の植民地政策の原型は北海道にある。北海道開拓は、たんに原野の開拓ではなく、抵抗する原住民(アイヌ)を殺戮・同化することでなされた。そのやり方が沖縄、台湾(日清戦争のあとで獲得した)、さらに朝鮮、満州、東南アジアへと拡張されていったのである。注目すべきなのは第一に、アイヌと日本人の「同祖論」が登場したことである。それはのちに韓国併合にあたって、「日鮮同祖論」として変奏された。それは相手の他者性を無化した上で、他者を支配する方法なのだ。このやりかたは、イギリスやフランスの植民地主義とは対照的である。それはアメリカの植民地主義政策と或る意味で類似している。後者は被統治者を「潜在的なアメリカ人」とみなすもので、そこでは帝国主義的支配であることが自覚されないままである。彼らは現に支配しながら、「自由」を教えているかのように思っている。 |
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実際、北海道は、日本の「新世界」として、何よりもアメリカをモデルにして開拓されたのである。たとえば、札幌農学校は、日本における植民地農業の課題をになって設立されたものだが、その創設においてクラーク博士が招かれたように、アメリカの植民地農政学が導入されたのである。日本の近代思想・文学史においては、それは内村鑑三に代表されるキリスト教の流れの中でのみ見られているが、実は、新渡戸稲造や内村の弟子たちは植民地経営の専門家となったのである。日本の植民地主義は、主観的には、被統治者を「潜在的日本人」として扱うものであり、これはむしろ「新世界」に根ざす理念である。それがのちの「八紘一宇」(大東亜共栄圏)のイデオロギーにまでつながっている。ついでにいえば、こうした日米の関係は、実際に「日韓併合」にいたるまでつづいていた。たとえば、アメリカは、日露戦争において日本を支持し、またその戦後に、日本がアメリカのフィリピン統治を承認するのと交換に、日本が朝鮮を統治することを承認した。アメリカが日本の帝国主義を非難しはじめたのは、そのあと、中国大陸の市場をめぐって、日米の対立が顕在化してからにすぎない。 |
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こうして、韓国版が出ることを契機に考え直してみると、日本近代文学の「起源」に、私がそれを書いた時点では考えていなかった様々な事柄が見えてくる。私は今後韓国の文学者と共にこれらの問題を考えて行きたいと思う。二十年前に書かれ日本では一種のクラシックと化してしまった本書は、「韓国近代文学の起源」の考察によって新たな意義を与えられると思うからだ。たとえば、私が言文一致にかんして述べたことは、韓国におけるハングルの問題と比較することによって普遍的になりうるだろう。私はここ数年韓国の文学者たちと定期的に会議を重ねてきた。いかに政治的に無力に見えようと、そのような地道な交流以外に日韓の歴史的な軋轢を越えていく途はないと考えたからである。本書の刊行が、そうした交流を進展させるきっかけとなることを心から願っている。 |
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1997年2月10日 柄谷行人 |
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