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私は埴谷雄高について多少の個人的思い出があるが、そんなことを書くのは無意味である。ある思考が徹底的な形を示した場合、最上の追悼はそれを「批判」することである。西田幾多郎について、戸坂潤は、独自の東洋的な哲学者であるという定評を否定し、近代西洋のロマン主義・観念論・美学の圏内にあること、それゆえに広範な影響力をもったにすぎないということを指摘した。同じことが、西洋近代の思考を越えたといわれる埴谷雄高についてあてはまるだろうか。ある意味ではそうである。 |
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埴谷雄高は獄中でカントの『純粋理性批判』に震撼され、さらに、カントが見出した理性の限界を、構想力(想像力)によって突破できるのではないかと考えたと記している。だが、それはフィヒテやシェリング、ノヴァーリス、あるいは西田幾多郎のようなロマン主義者(観念論者)がやろうとしたことでもある。現実に何も実行できないときに、ひとはそれを思考によって、想像力によって実現しようとする。ドイツ観念論の凄さはその現実的能力と反比例する。埴谷雄高も、現実的断念を引き換えに、観念の飛翔によって革命を実現しようとした人たちの系譜に入る。事実、彼の文章はロマン主義的である。それゆえに、彼の言葉を字義どおり受け取れば、ロマン主義的であるほかない。新たな思考形式?そんなものはない。西洋であろうと東洋であろうと、思想は簡単に形式化できる。しかし、新しいのは形式ではなく、それに意味を付与する現実なのである。一人の人間が、思念によって全世界を変えようとすることはたんに滑稽である。 |
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しかし、埴谷は、あくまでそれを「想像的」なもの、つまり文学と見なしたという点で、京都学派と違っている。彼は現実的無力を率直に認める。あるいは、歴史的情勢に敏感に対応し、経験的に対処する。したがって、埴谷雄高がカントを越えようとしたという伝説はまちがっている。それどころか、彼はいわばカント的な構えを取り続けたのである。第一に、カントが警告したのは、神や霊魂の不死といった形而上学的欲動をたんに否定してはならないということだ。それを否定したつもりの思考には、別の形で神や不死の形而上学が暗黙に挿入されている。たとえば、国家や共産主義のために死ぬという思考にはそれがある。形而上学的な欲動をたんに否定すると、別の、しばしば古い理念(神学)が突如あらわれるだけなのだ。 |
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埴谷雄高がカントに出会ったのは、転向においてである。転向とは共産主義という理念を放棄することだ。しかし、その意味では、埴谷は転向したと同時に、転向しなかった。つまり、彼は共産主義を構成的理念として放棄したが、統整的理念として保持したのである。カントがいう「目的の国」と同様に、それは将来の「無限遠点」にあり、実現されることはない。だが、この理念(超越論的仮象)は、たえず現在あるものを批判しそこに導く「統整的」な機能を果たす。埴谷がいう「永久革命者」――未来の無限遠点から現在を見る――の視点はそのようなものだ。この意味で、彼は一貫して共産主義者だった。そして、それ以外に、共産主義者でありうるかどうかは疑わしい。 |
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カントが警告したもう一つの点は、第一のそれとは逆に、経験論的現実を否定してはならないということだ。ドイツのロマン主義者たちはつねにカントのいう「物自体」を攻撃した。物自体によってカントが言おうとしたのは、理性を超える不可知な何かではなく、思惟を限定する感性、あるいは感性を触発する「物」の外在性だったからである。カントが物自体と現象を分けたのは、たんに物が在り他者が在るということを承認するためだ。物や他者は、私がいようといまいと存在する。しかし、私の認識する対象であるかぎり、他者は物自体ではなく、主観によって構成された現象である。だから、他者(物自体)は、実践的(倫理的)な関係においてのみ在る、とカントはいうのである。ここに何一つ神秘主義的なものはない。 |
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しかし、たんに物があり他者がいるという当たり前のことを言うために、なぜこのような面倒な手続きが要るのか。哲学にとっては、それを否定する方がはるかに容易だからである。哲学、というより、一般に「根源的」に思考することといってもよいが、それはこの当たり前の事実を疑うことからはじめる。あたかも世界が自己意識においてのみ存在するかのように考えるのが、そこではむしろ常識なのである。実際は世界を変えることが不可能であるからだが、逆に、それは、世界を軽蔑し、意識の在りようを変えることこそ革命的・本来的であるとみなす。幸いにして、埴谷雄高はこの種のロマン主義者(自らはそうとは思っていない人々)とは違っている。 |
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形而上学的飛翔を肯定すると同時に否定する、経験的な現実を肯定すると同時に否定する、そのような埴谷の両極性は、カント的なものである。それは「対話」としてしか表現されえない。彼がその鍵をドストエフスキーの小説に求めたことは突飛なことではない。たとえば、スターリン主義時代のソ連に生きたゴロソフケル(1890-1968)は、ドストエフスキーが『カラマーゾフ兄弟』においてなそうとしたのは、カントのアンチノミー(二律背反)と対決することだったと言っている(『ドストエフスキーとカント』1963・みすず書房・木下豊房訳)。埴谷の『死霊』は、それをもっと早く、もっと鮮明に自覚していたといってよい。 |
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しかし、彼がついに見なかったアンチノミーがある。それは資本主義のアンチノミーである。彼が獄中にいた前後に、日本主義論争または封建論争として知られる論争が続いていた。コミンテルンのテーゼにもとづく講座派(共産党)は、日本社会を「封建遺制」が支配するとみなし、他方、労農派(猪俣津南雄)は、外見上いかに封建的に見えようと、それは支配的な資本制のもとで生じる形態にほかならないと主張した。そこから見ると、埴谷雄高が、丸山真男も同様だが、基本的に講座派の認識に立っていることがわかる。丸山の近代主義は、日本にはこの「封建制」が執拗に残り続けているという認識から来ている。一方、埴谷はそのような封建制を打倒しようとする革命政党が逆に形成する権力構造を批判する。それらが有効な意味をもつ時期があったし、今もあることはまちがいない。しかし、それらが不十分であることも疑いがない。 |
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彼らが考えていないのは、資本制経済、つまり、貨幣に媒介される人間の関係がとる支配形態、およびその両義性である。それは人を、直接的な人間の関係がもたらすむき出しの支配、あるいは家族・共同体における贈与―お返しという互酬性の支配から解放すると同時に、新たな支配関係をもたらす。それは媒介的な支配であるがゆえに、権力をどこかに実体化することができない。しかし、そのような媒介的支配=資本制を否定する体制、すなわち直接的な人間の関係を実現する体制は、あからさまな権力的支配に帰着するほかない。これが資本制のアンチノミーである。ブルジョア社会を最も肯定すると同時に最も否定するマルクスの「弁証法」は、このアンチノミーから考えられねばならない。そして、これを「越えた」かのように装う思想は、どんなものであれ、破綻するに決まっている。 |
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(1997.02.22) |
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