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第1回横浜トリエンナーレ2001が開幕した。3年に1度の現代美術の祭典のスタートである。そのオープニングを見ての感想を書き付けておこう。 |
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まず、誰でも口にするであろう批判から。
- この種の国際美術展というのは国際見本市のようなものでしかない。とくに、モダニズムの流れが拡散してしまってから多文化主義的な混沌が支配的になっているが、そこでは多文化主義というのが多国籍資本主義の文化的表現に他ならないことが露呈される。
- 世界中で――とくに近年はアジア各地で次々にビエンナーレの類が開かれるようになっており、バブルもはじけて久しい今になって日本で同じようなことを始めてもどうにもならない。
- 今回はアーティスティック・ディレクターが4人もいて焦点を絞りきれず、「メガ・ウェイヴ――新たな総合に向けて」というテーマ(?)もあまりに茫漠としていて、混沌に拍車をかけている。
- 主会場がパシフィコ横浜(まさに見本市会場だ)と赤レンガ倉庫(古い建物をリノヴェートしたもので風情がある)に分断されていて全体を見るのが容易ではなく、かといって都市の中に浸透していくような展開も十分ではない。(桜木町駅からみなとみらい地区へ向かう動く歩道に設置されたイチハラヒロコの「これ以上/何を望む」というバナー[この言葉はラジオでも放送される]は、まさにバブルの廃墟とも言うべきこの地区への皮肉なコメンタリーになっている。弾痕だらけのドイツ鉄道の貨車の中から音楽と光が流れ出るオノ・ヨーコの作品は、赤レンガ倉庫の近く、昔の引込み線の駅や税関の廃墟の脇という絶好の位置に置かれている。他方、ミラー・ボールを海に浮かべる草間彌生の作品は、奥まった位置にあり、ボールの数も少なすぎて、ボール同士の触れ合う音が面白かったりはするものの、十分な効果をあげているとは言えない。蔡國強の計画していた港の花火[「メガ・ウェイヴ」が台船から観客の方に押し寄せてくる!]に至っては「危険性」のために実現できなかった。何より、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルの二つの帆のような部分の間に巨大なバッタのバルーンを吊るすという椿昇と室井尚の作品は、コンセプトにも意味がないし[昆虫は進化の系統樹の中でもっとも大きな枝のひとつではあるが、人類が今さら昆虫から学ぶといっても一体どうすればいいのか]、そもそもオープニングの段階ではバッタがしぼんだままだったのだから、間の抜けた誇大妄想と言うほかないだろう。)
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これらは、しかし、誰でも口にするであろう批判に過ぎない。それを踏まえた上で言えば、やはり世界中の110人ものアーティストの作品に一挙に触れることができるだけでも面白いということは素直に認めておかなければならない。そもそも国際美術展というのは大体がこんなものなのだし、混沌とした中からもいくつか発見があればそれでいいので(「これ以上/何を望む」)、その意味では横浜トリエンナーレは最近の国際美術展のなかでもかなり面白いものだったと言えるのではないか。 |
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そこで、個人的に記憶に残った作品をアト・ランダムにいくつか。
- 深さ4mほどの明るい海底で3台のシクロ(ヴェトナムの人力車)を6人の若者がえんえんとこいでゆく(ときどき浮上して息を継ぎながら)さまを写したジュン・グエン=ハツシバのヴィデオは、夢のように美しくも息詰る印象で、忘れがたい。また、ヘッドホンで音を遮断し、磁石のついた靴をはいて鉄板の上をすり足で歩くというマリーナ・アブラモヴィッチの作品も、覚醒状態で悪夢を体験するかのようで、単純ながら印象的だった。
- 故郷ハバナと横浜(朽ちていく廃墟と廃墟としての未来都市?)を対比させながら、粗末な木のテーブルと壁に無数のピンと糸でルネサンスの理想都市の透視図を描き出したカルロス・ガライコアの作品(「なぜならすべての都市はユートピアと呼ばれる権利を持つのだから」)は、手仕事の細かさが感動的だった。ちなみに、カールステン・フラーがクルチコフの「飛ぶ都市」(1928年)をガラスのシャンデリアのように吊るした作品が、ヨナ・フリードマン(1923年生)の「空中都市」と同じく、誰も見上げることのない空中で寂しくきらめいている様子は、まさに見捨てられたユートピアという感じで、感慨深かった。
- 赤瀬川原平のブースには、木のフレーム(その二つはNTTdocomoの情報を受信して表示するウィンドーを備えており、そこにはときどき「芸術という言葉と同時に芸術は消える」といったアーティストのメッセージが挿入される)に入った灰色の平面が4点並んでいるのだが、灰色の平面は実はスクリーンで、たまにするすると上がって、下に隠されていた「トマソン写真」が「ご開帳」される。気の利いたジョークには違いない。何度も覗いたのにひとつだけ見られなかったのが、たまたまそこで作家と喋っているとき最後のひとつがするすると開いたのは、嬉しい偶然だった。
- 杉本博司はロウ人形を撮った写真を出展している。最初ベルリンのグッゲンハイム美術館で披露されたもので、その時に出た本も素晴らしいが、やはり等身大を超える大きさと恐るべき精度のプリントを実際に見ると圧倒される。ロウ人形をさらに写真に写したものが本ものよりもリアルに見えるという逆説。(ただ、このシリーズに関しては、実は銀座のギャラリー小柳でやっている展示の方が面白い。アーティスティックな評価は別として、エリザベスII世と裕仁が並んだところは、やはりそれだけで迫力がある。)
- ピエール・ユイグ(“No GhostJust a Shell”というタイトルは悪くない)やロール・ティクシエといったフランスの作家が日本のアニメやマンガに影響を受けた作品をつくっているが、たんに表面的なかわいさが強調されるだけで、稚拙としか言いようがない。他方、日本の側では、会田誠が、無数の少女を詰め込んだジューサー・ミキサーの絵などで、「スーパーフラット」な表面の背後にあるおたくの暗い情念を暗示し、ショックを与えた。もちろん、こうしたポストモダン・オリエンタリズムの鏡のゲームには、とっくにうんざりしているのだが。
- アラン・セクラの作品は、コンセプトもプレゼンテーションも単純すぎるものの、横須賀の米海軍基地の兵士の写真と水産高校の生徒の写真を並べたり、小林よしのりの『戦争論』と小林多喜二の『蟹工船』を並べたりする正攻法の展示で愚直な批判的啓蒙に徹したところをかえって評価すべきかもしれない。
- クシュトフ・ウディチコの作品(工場への不満を述べる労働者の顔を巨大な円形スクリーンに拡大投影する)は迫力とユーモアを兼ね備えていていいのだが、その様子がヴィデオで紹介されるだけというのは寂しい。本来は、夜、野外で実際にそういうイヴェントを行なうべきところだろう。近くに神奈川県警本部があるのだから、内部告発大会などがよかったのではないか。ケリス・ウィン・エヴァンスの作品(パゾリーニの一節をネオンで示し、ライトがモールス信号で点滅して語り続ける)も、海辺に設置すれば効果的だったろう。また、ステラークの巨大な蜘蛛型ロボットも、凶暴な動きがエキサイティングなのだが、これまたヴィデオで紹介されるだけで、実物は飾ってあるだけというのは寂しい。やはり実際にパフォーマンスを見たいところだ。
- 3次元空間の中の体験の流れをマップ化したものの中を、観客が3D眼鏡をかけて簡単なナヴィゲーション・システムを操作しながら動きまわる藤幡正樹の作品は、映像そのものより、システムの可能性という点で、きわめて興味深い。
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もとより、これはトリエンナーレの一端に関するアト・ランダムなメモにすぎない。だが、最初に述べたように、この種の国際展について全体的な傾向を読み取ったり批評したりすることはもはやほとんど不可能になっているのだ。興味をもたれた向きは、実際に横浜に足を運んでもらいたい。そこでは、混沌の中で、少なくともいくつかの発見が待ち受けているだろう。 |
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それにしても、オープニング記念国際シンポジウムで同席した蔡國強に聞いたいくつかのアイディアは実に過激だった。横浜での花火がダメだったのなら、オリンピック招致が夢と消えて荒地のままに残された大阪湾の舞洲あたりでなんとか実現できないものだろうか。いや、それはむしろ次回の横浜トリエンナーレに延期されたと考えよう。そのようにして今回のゆらぎがだんだん真の「メガ・ウェイヴ」へと拡がっていくとすれば素晴らしいと思うのだが……。 |
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