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スラヴォイ・ジジェクの『汝の症候を楽しめ』は、もともと1992年に出た本だが、今年になって「『リアリティはつねに複数である』のはなぜか」という章を末尾に加えた増補版が刊行された。その序文で著者は「私の標準的な本の形式は6章の長さであり、この本の初版は5章しかなかったので、8年の遅れをへた今になってはじめて『汝の症候を楽しめ』はまさしく私の本となった」と言っている。その直後に初版の邦訳(筑摩書房)が刊行されたというのは、こうしてみると、いささか間の抜けた話には違いない。 |
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この本は、例によってヒッチコックなどの映画に則しつつラカンの精神分析理論をざっくばらんに解説していくもので、いつも通りのジジェク節が展開されている。だが、新版のカヴァーに寄せる言葉でジョアン・コプチェクの言うとおり、『汝の症候を楽しめ』というタイトルは、当時からどんどん強まってきた「他者の倫理」(「他者に応答責任をとれ」)と真っ向から対立するものと言ってよく、そうしてみると、ジジェクが当時から一貫してそういう立場を取り続けてきたことが、この本を読み直すことであらためて確認されるだろう。もちろん、ジジェクの立場はきわめてトリッキーなもので、表面的にとるととんでもないことになりかねない(たとえば、石原慎太郎は、チックを繰り返しながら外国人嫌いの発作をとことん「享楽」していればいいので、外国人労働者への責任などを偽善的に語り出すのはかえってよくない?!)。むしろ、それは、いかなる他者をも傷つけまいとして政治的不能に陥ってしまう(そして結果的にすべての他者を傷つけることにもなりかねない)という最近の「批判的知識人」の傾向への批判として、一定の意味を持つように思われるのである。 |
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さて、この本の多岐にわたる論点を紹介することは不可能なので、ここでは第一章「『手紙はかならず宛先に届く』のはなぜか」に焦点を当ててみよう。そこでのテーマは、「手紙はかならず宛先に届く」というラカンのテーゼと、それに対するデリダの批判(『葉書』の「真実の配達人」の章などで提示され、日本では東浩紀の『存在論的、郵便的』によって強力に展開された)である。ジジェクによれば、「手紙は宛先に届かないこともありうる」というデリダの批判は、あまりに「常識的」――つまりは経験的なものであり、ラカンのテーゼの誤解に基づいている。というのも、ラカンは手紙が経験的な意味で必ず宛先に届くなどと言っているのではないからだ。ジジェクの解釈では、たとえば無人島から瓶に入れた手紙を海に流すという極端な例の場合でも、それが実際にはいかなる経験的な他者にも届かない可能性が大きいにもかかわらず、それは海に投げ込まれた瞬間に真の宛先である「大文字の<他者>すなわち象徴的秩序そのもの」に届くというのである。もちろん、これだけではデリダの論点を強化することにはなっても突き崩すことにはならない。デリダはまさしくそのような象徴界の論理――超越論的シニフィアンの自己回帰というトリック(超越論的シニフィアンは、経験的次元では不在そのものであるからこそ、決して破損することなく起源=目的地に回帰する)に基づく論理を批判しているのだから。そこで、ジジェクは想像的・象徴的・現実的次元でさまざまな角度からラカンのテーゼを例証し、デリダの批判をさらに反駁していこうとする。想像的次元で、主体は偶然ある場所にいたためにある呼びかけ(手紙)を受け取り(「コミュニストであれ」「ナショナリストであれ」etc.)、それに応えることで主体となるのだが、にもかかわらず、自分があらかじめそのような主体であり、呼びかけ(手紙)はまさにそのような自分に向けられていたのだと誤認する(この点で31頁2〜3行の訳は「次のように誤認する」ではなく「次のことを誤認する」でなければならない)。それゆえ、手紙は(いわば誤配されることによって)かならず宛先に届く。象徴的次元で、主体はたとえば高邁な理念(「コミュニズム」「ナショナリズム」etc.)から起こした革命が血なまぐさいテロルに帰着するのを見て「こんなつもりじゃなかった!」と叫ぶが、実はテロルこそが革命の真の姿だった(言い換えればテロルなしの革命はありえない)のであり(それは、大文字の<他者>すなわち象徴的秩序そのものが斜線を引かれているということ、つまり、社会が敵対性なしの有機的秩序として実現されることはありえないということの帰結である)、主体は自分のメッセージ(「手紙」)を反転した真の形で受け取っているに過ぎない。それが不可避であるかぎりにおいて、手紙はかならず宛先に届く。さらに現実的次元で、「手紙はかならず宛先に届く」というのは、要するに、われわれはみな死を――しかしまた享楽を――避けられないということである……。ジジェクの議論は、しばしば例にひきずられて次々に横滑りしてゆき、論理的に明快と言えない場合が多い。だが、徹底した否定性の思考を実に多様な形式で演じてゆくそのアクロバティックなパフォーマンスは、ラカンとデリダの「対決」を再考する上で、いくつかのヒントを与えてくれるはずだ。それを踏まえてこの問題への総合的なアプローチを試みる読者がいれば幸いである。 |
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そこで、ついでにもうひとつヒントを付け加えておこう。実のところ、ラカンとデリダの「対決」に先だって、ラカンとアルチュセールの「対決」があった。アルチュセールが自伝『未来は長く続く』で述べているところでは、こうだ。アルチュセールは唯物論哲学のことを考え、たんに無駄になってしまう物質のことを考えていた。「そして、私は、投函されてもつねに宛先に届くわけではない『手紙』のことを考えていた。さて、ある日、私はラカンが『手紙はかならず宛先に届く』と書いているのを読んだのである。驚きだった! だが、若いインド人の医師がかかわってきて、事はさらに複雑になった。彼は、ラカンのもとで短い分析を受け、最後にラカンに尋ねたのだ。『あなたは、手紙はかならず宛先に届くと言っている。しかるに、アルチュセールは逆のことを言っている、手紙が宛先に届かないことも起こるのだ、と。アルチュセールが唯物論的だと言っている彼のテーゼについて、どう思うか。』ラカンは10分間よく考え(あの彼にして10分だ!)、簡単な答えを口にした。『アルチュセールは臨床家ではない。』ラカンが正しいことが私にはわかった。実際、治療における転移の関係の中では、いかなる空虚もないような形、したがって他者の無意識にきちんと宛てられたすべてのメッセージが必然的にそこに届くような形で、情動的な空間が構造化されているのだ。」逆に言えば、転移の関係によって稠密に構造化されていない空間では、手紙が宛先に届かないこともありうるということになる。鋭い認識と言うべきだろう。だが、アルチュセールはこの説明に満足できない。とはいえ、ラカンを「観念論的」と決め付け、自分は唯物論的だと言ってすませることもできない。結局、「ラカンは精神分析的実践の観点から語っており、私は哲学的実践の観点から語っている」のであって、これら二つの領域は互いに重ね合わせることができないというところに、この問題の解決の糸口を垣間見て、終わりということになる。この意味では、デリダもまた哲学的実践の観点から語っているということになるのだろうか。 |
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事はそれほど簡単ではないだろう。しかし、アルチュセールとのやりとりを含めてラカンとデリダの対決を考え直すことで、さまざまな問題が明らかになっていくのではないか。ジジェクの『汝の症候を楽しめ』は、あらためてそのためのきっかけを与えてくれる本でもある。 |
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