Web CRITIQUE

パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?――ジジェクの『信仰について』/浅田彰
 スラヴォイ・ジジェクの新著『信仰について』(2001年)を読んだ。ポストモダン相対主義や、それと背中合わせになったニュー・エイジ神秘主義に抗して、あえてキリスト教的な信仰の中に可能性を見出し、ローマ帝国に対してキリスト教の行なったようなラディカルな介入を現在の「帝国」(ネグリ=ハート)に対して行なっていかなければならないと論ずる。そこでクローズ・アップされるのがパウロだ。パウロを初めとする弟子たちの歪曲を超えてイエスの原像に迫るというアプローチは珍しくない。ところが、ジジェクは、アラン・バディウの『聖パウロ』(1997年)を踏まえて、正反対のアプローチをとる。教義を体系化し、教団を組織化していったパウロこそが、キリスト教をキリスト教にした――なかんずくそれに政治的インパクトを持たせたというのである。それとの類推で、ジジェクは、「マルクスへの回帰」という口当たりのよいスローガンを唱えることでしばしばマルクス主義を脱政治化してしまう最近の左翼の傾向を批判し、あえて「レーニンへの回帰」を主張する。(もちろん、同じことはフロイトとラカンの関係についても言えるだろう。)こうして、シニシズム批判から出発したジジェクは、あえてパウロ的あるいはレーニン的なドグマティズムを選び取るところまで至りついたのである。だが、問題は、ジジェクのシニシズム批判そのもの、したがってまたドグマティズムを選び取るというジェスチュアそのものが、きわめてシニカルであるということだ。それは形式的なジェスチュアであって、ドグマの内容は何でもいいということになりかねない。現に、なぜレーニンであって、スターリンではなく、マオではないのかという内容的な論証は、ほとんど与えられないだろう。実のところ、60年代末のラカン=アルチュセール主義過激派は、同じようなドグマティズムに基づいてマオを選んだのだった。当時の過激派の生き残りであるバディウと、バディウ(そしてミレール――ただしジジェクは本書で師のミレールさえラカンのドグマを相対化しすぎているといって批判している)の影響を受けたジジェクは、30年以上たったいま、マオとは言わないまでも、結局はほとんど同じことを繰り返しているように見える。もちろん、ローティに代表されるポストモダン相対主義が政治固有の次元を部分的社会工学へと解消してしまっているという批判は正しい。また、ラカン=アルチュセール主義過激派(観念論との闘争において唯物論の立場に立つことが哲学の任務である)に抵抗して、より重層的な判断の必要性を説いていたデリダ(第一のフェーズでは観念論と唯物論の優劣を逆転する必要があるが、第二のフェーズでは観念論と唯物論の対立の基盤そのものを脱構築する必要がある)も、今となってみれば、実際面ではとりあえず社会民主主義的な漸進的改良を支持する一方、理論面ではアポリアに直面しての不可能な決断といったものを神秘化するばかりという両極分解の様相を呈し、政治固有の次元を取り逃がしていると言えるかもしれない。そのような相対主義や(事実上の)オブスキュランティズムに対し、悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。
(Slavoj Zizek, On Belief, Routledge, 2001. この本を含む<Thinking in Action>という新シリーズは、マイケル・ダメットが移民や難民について論じ、ヒューバート・ドレイファスがインターネットを論ずるというように、高名な理論家がアクチュアルな問題と取り組むという設定である。)

▲ 本記事に対するご意見・ご質問・ご感想などはこちらへ。

PAGE TOP
Copyright © 2001 Critical Space Organization.  All rights reserved.
Web CRITIQUE に戻る Web CRITIQUE に戻る
浅田彰アーカイヴに戻る 浅田彰アーカイヴに戻る
Top Page に戻る Top Page に戻る