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まるでハリウッド映画の一場面みたいだ----あの恐るべき事態を捉えた数々のビデオ映像を、すでに様々な人々がこのように言い表している。私自身も、世界貿易センターのツインタワー各棟の上部へ旅客機二機が激突し、炎上の末に倒壊に到る過程をテレビを通して見続けながら、一連の映像をハリウッド映画と関連づけて受け止めていた。その既視感は、皮肉なことに、アメリカ合衆国自身がこの十年ほどの間に洗練させ続けた映像表現の集積=記憶により齎されていたわけだ。 |
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90年代、革新的なCG技術を得たハリウッドは、自国の主要都市を仮想現実上でくり返し破壊した。例えば、『ダイ・ハード』シリーズ、『インディペンデンス・デイ』、『ゴジラ』、『アルマゲドン』といった作品がそれに当て嵌まるわけだが、他にもいくつか挙げられるだろう。これらの作品は、犯罪アクション、SF・ファンタジー、パニック映画のジャンルに属す架空の物語を扱っているが、90年代のハリウッドが「リアル」な描写の対象として改めて選び出したのは、必ずしも想像上の出来事に限らなかった。最新の特殊視覚効果技術を用いて史実の一部を「緻密」に描き出す種類の作品もいくつか製作されており、『タイタニック』における破局の過程、『プライベート・ライアン』の苛烈な戦闘の場面はその代表的な例だ。あるいは、『タイタニック』と『プライベート・ライアン』の内容を混淆したかのごとき映画が今年発表されており、『パール・ハーバー』というタイトルのその作品では、アメリカの領土が蒙った戦火の有り様が「克明」に描かれている----そして今回のテロ事件は、まず真っ先に歴史上の事件としての「パール・ハーバー奇襲」との類似性を指摘されてもいた。 |
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90年代のハリウッド映画における、「リアル」だったり「緻密」だったりする映像表現は、周知の通り、急速な進歩を遂げたデジタル技術に多くを負っている。虚構の破局的事態をインターフェイス上で綿密に組み立てて実写と合成し、恰も“ドキュメンタリーであるかのように”映し出す。または、一瞬の出来事を複数の視点から捉えつつ連続的に配置して、わずかな時間の推移を引き伸ばし、場面を強調してみせる(『マトリックス』におけるブレット・タイム撮影等)。これが、90年代的スペクタクル映像の実態だった。 |
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このようにして、近年のハリウッドは、かつてない「現実感」を演出してきたわけだが、その過程はIT革命により齎されたアメリカ国内の好景気に支えられていたと言える。「ITバブル」などと称されもした当時の状況においては、映像上の表現にせよ、経済情勢にせよ、いわば“見せかけ”の「現実感」=イメージが視界に浮上していたのであり、その背後にあるのはほとんどが実体を欠いた不可視の“情報”だったわけだ。 |
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しかし現実は、あまりにも皮肉で惨たらしい帰結に到ってしまった。 |
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97年に発表された『乱気流/タービュランス』というハリウッド映画を即座に思い起こさせる9月11日のテロ攻撃の標的となったのは、世界貿易センタービルと国防総省だった----言うまでもなく、これらは合衆国の金融機関の中心地であり軍事行政の核となっている象徴的な建物だが、同時に、いずれもハリウッド映画の特権的被写体であり、題材や資本の供給源でもあった。 |
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映画においてはどれほど「リアル」に映っていても“見せかけ”にすぎなかった崩壊の様子が、そこでは紛れもない現実の出来事として進行していた。実際に建物は倒壊し、大勢の犠牲者が出てしまった。私たちはそれを、映画と同じように映像を介して目にしたわけだが、破壊されたのは、“情報”により構成された実体を欠くイメージではなく、実物の建造物であり、亡くなった人々も実在の人物たちだった。なぜなら、すべては現実なのだから。 |
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こうした事実が告げているのは、実物の建造物の崩壊や実在の人物たちの死とともに“見せかけ”のイメージ自体もまた崩れ落ち、「現実感」を失ったということだ。 |
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このことは、映画にとっては必ずしも初めての経験ではない。例えば第二次世界大戦における大量死の衝撃は、映画というジャンルに対しても深甚な影響を及ぼした----イタリアン・ネオレアリズモからヌーヴェル・ヴァーグに受け継がれ、さらに世界的に拡がった“ニューシネマ運動”は、これを出発点としていた。 |
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“ニューシネマ運動”におけるドキュメンタリー性(即物的な事物の描写)の追及は、作家たちを表象不可能性に直面させた。いくらカメラを向け続けても、決してフィルムには収まらぬ、描き得ない対象=“現実”----いかにしてこれと接するかが、“ニューシネマ運動”を受け継ぐ作家たちにとっての課題となった。他方、アメリカン・ニューシネマの時代を経た70年代後半以降、特殊視覚効果技術によるスペクタクルの表現を推進し続けてきたハリウッド映画は、あらゆる事象の可視化を試み、それ自体としてはある程度の成果を収めつつも、今日に到ってついに、“ニューシネマ運動”とは異なる形で“現実”と向かい合わねばならなくなった。 |
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“見せかけ”のリアリティーは、やはり“見せかけ”でしかないのであり、どこまで可視化を推し進めようと、“現実”は目にし得ず、出来事の実態は描ききれない。それが、アメリカ合衆国同時テロ事件が改めて露呈させたハリウッド映画の限界であり、このことによって、90年代的スペクタクル映像は結果的に無効化したと言える。 |
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第二次大戦の後、戦争は無くなるどころか世界中で頻発し続け、アメリカ自体、朝鮮戦争から湾岸戦争、さらには九九年ユーゴスラビアのコソボ空爆に到るまで幾度となく軍事行動を展開している。その過程で、ハリウッドは、戦争映画を量産してきたし、大勢の死や破局をスペクタクルの素材として扱ってもきた。だが、本土が戦地となるのをまぬかれ続けたアメリカは、戦場へ送り出された兵士たちの多数の死や心身の傷を抱えながらも、主要都市や政府機関の大破壊または機能不全を経験するには及んでいなかった。それゆえに、2001年9月11日のテロ事件は、ハリウッドにとって、これまで通りのやり方では到底乗り越え難い出来事となったのは確実だろう。 |
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湾岸戦争の映像は、多国籍軍のイラク攻撃が、ハイテク兵器による闇の中での戦闘(光の明滅)として主に示され、「テレビゲーム的」などと見られていたわけだが(それにより当時は「現実感」の稀薄さを指摘されてもいたわけだが)、今回のテロ事件は一切が鮮明に映し出されており、驚くべき数のカメラによって一つの光景が捉えられている。 |
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まるでハリウッド映画の一場面みたいだ----私自身がそう受け止めたのは、超高層ビルへの旅客機の激突や建物の倒壊の様子のみではなかった。無数のカメラによる事件の記録----この点にも、私は90年代のハリウッド映画との共通性を感じ取っていた。 |
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当初は、遠方から世界貿易センタービルの様子を収めたテレビ局のカメラによるライブ映像のみが画面に映し出されていた。だが、時間の経つに連れて、世界貿易センタービルがテロ攻撃を受けて倒壊に到るまでの過程を、じつに様々な角度から諸々のカメラが撮影していたことが判ってゆく。マスコミ関係者から一般市民まで、立場の異なる人々が撮影者となって、ニューヨークの大惨事というただ一つの光景を、いろいろな場所から記録していたわけだ。テレビは、それらの映像を繋ぎあわせて連続的に放映し、恰もマルチカメラで事件が捉えられていたかのごとく提示してみせる。そこでは、一瞬の出来事が、複数の視点の連鎖によって時間を引き伸ばされて映し出されることとなる。この提示の仕方に、私は『マトリックス』等におけるカメラワーク(瞬間の多視点描写)を思い出さずにはいられなかった。こうした、現実の推移を収めた映像の饒舌を受け止めた上で、自分たちは何を語れるのか、そのことを私は考えざるを得なかった。 |
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しかし何より皮肉なのは、娯楽性の表現としてハリウッドがこの十年ほどの間に作り上げてきた仮想現実上での破壊のイメージを、反アメリカのテロリズムが現実のレベルで実現してしまったという点であろう。事後的に見ると、まるでハリウッド映画がそうした事態の起き得る可能性を醸成させてきたかに思われかねぬが、私たちは今後、出来事のすべてを単一の物語に回収してしまう動きには抵抗し続けてゆかねばならぬのではないか。 |
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ところがまずいことに、現実はさらにある種のハリウッド映画の内容をなぞるかのように進展しているらしい。報道によれば、事件後、合衆国政府は犯人捜しと報復へ向けた準備を直ちに始め、市民たちの多くは星条旗を買い求め、国内のアラブ系住民に対する敵意が強まってきてもいるという。事件発生からまだ間もない時期であり、しかもメディアを通じて知り得た現実のほんの一端にすぎぬわけだから、私自身もまた現状を過度に単純化して捉えるべきではないが、たとえそうであるにせよ、あのブッシュが罹災地の視察に訪れてレスキュー隊に労いの言葉をかけ、小さな星条旗を振り、USAコールが沸き起こる様子を収めたニュース映像には、不吉なものを感じ取らざるを得なかった。仮に英雄視されるべき者がいるとすれば、それは消火活動や人命救助に携わる消防隊員や瓦礫の除去作業員たちであって、現大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュではなかろう----これが率直な私の感想であった。 |
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今後、アメリカ合衆国がテロリズムに対する報復攻撃を開始し、それがどのような経緯を辿るにせよ、権力者ブッシュが英雄視されてしまうという、悪しきご都合主義だけは容認すべきでない----そもそも、これまでに合衆国政府が進めた中東政策の誤りが今回のテロ事件を惹き起こした要因の一つではないのか。90年代のハリウッド映画は、スペクタクルの映像表現を過大に展開させてゆく中で、物語の脆弱化を抑えられず安易な類型の利用に傾き、説話的破綻の処理を放棄する場合すらあった。そうした、語るべき物語を見失いつつあった(かに見える)合衆国の現状において、いかにも判りやすい大統領の英雄譚が今また浮上し、空白を埋めつつある。そのような“見せかけ”の明瞭な物語=イメージが蔓延してゆけば、私たちの視界から再び“現実”は覆い隠されてしまいかねない。 |
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ハリウッド映画は今後、現実の側が推し進める“見せかけ”の物語=イメージに対して、果たしてどのような態度を示すのだろうか。第二次大戦中や冷戦構造下と同様に、一方では「戦意昂揚映画」のごとき作品を撮り続け、他方では「家族映画」を製作してゆくことで国民的結束の補強的役割を担いつつ、事態をやり過ごすのだろうか。そして数年後、再び『パール・ハーバー』のような映画を発表するのだろうか。 |
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しかしそれに対しては、前述した通り、90年代の映画群が予め不可能を宣告しているのだ。 |
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かつて、アンディ・ウォーホールは、オリジナル版のキングコングが昇った“ポップアイコン”エンパイア・ステートビルの外観を固定カメラによる長回し撮影で延々捉え続けた。八時間の作品として仕上がった“ドキュメンタリー”『エンパイア』は、ほとんど何も起こらない映画であり、エンパイア・ステートビル自体は不変のままだった。『エンパイア』の撮影から38年後、リメイク版のキングコングが昇った世界貿易センタービルが複数のカメラによって一斉に記録された。そのとき撮られたのはごく短時間のうちに起きた出来事だったが、風景は大きく様変わりしてしまい、世界貿易センタービルは本来の形を失い、結果的に瓦礫の山と化した。 |
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この二つの映像同士は、それぞれ全く異なる目的で撮られたものであり、本来は無関係なはずだ。しかしながらこうしたこともまた、深い関連性があるかに思えてしまうアメリカ合衆国の現状=物語を、映画はより多数のカメラ=視点を導入することによって細かく分離してゆかねばならぬのではないか。 |
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悲観ばかりすべきでないのも確かだ。実際、ハリウッドは、常に合衆国に対して屈従してばかりいたわけではなかった。過去、多くの製作者や作家たちが、単一の物語への回収を拒み、強い制度的締め付けの中にあっても多様な世界の表情を捉え続けた。一見「戦意昂揚映画」としか思えぬような形で世に出された作品でも、蓋を開けてみれば、そこに込められた作者たちの真意は表面上のイメージとは大きくずれていることも少なくない。意図的に単純化されたイメージが、複雜に入り組んだ世界の様相=問題を際立たせ、思いも寄らぬ解決へと導くことすらある----ハリウッド映画とは、元来、そのような国家批判の装置としても機能していたはずなのだ。 |
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悪しきご都合主義の物語は、とりあえずは徹底したご都合主義の暴露によって無効化し得るかもしれない----そうした視点から、手始めにスピルバーグの『A.I.』を見直してみるのもいいだろう。 |
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2001年9月17日 sin-semillas.com
初出 阿部和重 |
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