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嬰児と頽廃
 この国にまた1人(少なくも20数年、ことによると永遠に姓をもつことのない女の)嬰児が産声を上げた。括弧のなかの言葉を除けば、これじたいにはむろん何の感慨もない。男女の別を問わず、子供は到るところでたえず生まれてくるからだ。ただ、日本に生きてある以上、あくまでも内国的な括弧内にむけ否応なく耳目を強いられる。そうした対象がまたひとつ増えたという事実には相応の感想を抱かざるをえぬわけだが、受胎騒動から出産にいたるこの間、折に触れて思い出すのは中野重治「その身につきまとう」(1953年)の次のような場面である。
 1933年冬、多摩刑務所で寒気に凍えながら夜を凌ぐ主人公・安吉に、独房の壁孔を通して、看守が、皇太子(現天皇)の誕生を告げにやってくる。定時の監視ではなく、その事(安吉の耳にした風説によれば、当時の「弟宮」夫婦に「産児制限」を施してまで「それ一つが待たれていた」事)をわざわざ、しかもことさら小声で秘密めかして、未決の政治犯の耳にのみ注ぎ込むためにやってくる看守、およびそこに体現された天皇制権力の獰猛な隠微さに、作者と等身大の主人公は、鍋に物が煮え立つような「ある毒々しい感情」を抱く。抱きながら、「何というデカダンスだろう」「頽廃だ、頽廃だ」と言葉を詰まらせる安吉は、たんに、ひとりの赤子が生まれたというだけの事を「どんなに喜ばねばならぬのだろう。どんなに提灯行列をせねばならぬのだろう。号外を出さねばならぬのだろう」と憤るのだが、この怒りに「毒々しい」色彩が立ちこめるのは、当然のことである。相手は何しろ、その名において、現に彼への生殺与奪の恣意を握る「家」の子供なのだ。だが、感銘を覚えるのは、その彼が同時にこう考える点にある。頽廃的なのは、全員が喜びを強いられ、それに和さぬ者がこうして獄に繋がれていることよりも、むしろ、ひとりの無辜の人間の誕生が、自分にとっては「詛(のろ)いとして」形づくられてしまうことなのだ、と。
≪ある人がある家に生まれたといつただけのために、その人にたいする祝福が詛いとして形づくられねばならぬ。なんという運命。世界の誰にもそんな運命が予定されていないのに、ただその人にだけそれが予定されている。≫
 だからこそ、一刻も早く「個としての彼らを解放せよ」(「五勺の酒」1947年)というのが、日露戦後の木下尚江の断言(「皇門を解放せよ、帝王と其の家族を救ひ出せ、而して彼等に平民の自由を与へよ」)を、昭和の敗戦直後に引き継ぐ中野重治のスタンスである。こうしたごくまっとうな言葉を、その木下から数えれば100年、中野からもすでに50年を経たいまに特筆銘記せねばならぬことじたいに、まず暗澹たる思いを禁じえぬのだが、右の「その身につきまとう」を現状に引き寄せていまひとつ感慨を新たにする点がある。現天皇の「立太子」時点で、共産党の参議院議員としての見聞も交えて一編の筆を執る作者が、当時また世上に「押し出して」来た皇室にたいする抵抗としての「天皇小説」の必要を痛感する一方で、小説そのものの成否について思いを屈するくだりがそれだ。主としてモデル問題(それは今日また柳美里の事件に繋がる)にまつわるその興味深い逡巡ぶりについては小著『不敬文学論序説』に譲るが、改めて思うに、中野はそこで、「個としての彼らを解放」することと、獄中の安吉をとらえた「毒々しい感情」との矛盾に戸惑っていたのかもしれない。
 いうまでもなく前者は端的に政治の問題であり、後者は物語を駆動する動因としてある。後者はしかも、同じ対象への「恋々たる感情」を同一線上の他方の先端に位置づけるような想像力の閉域を形づくる。あえて単純化すれば、たとえば、大江健三郎と三島由紀夫とは、この閉域内においてはほぼ同類の優れた作家であり、格をぐっと落とせば、桐山襲(『パルチザン伝説』)、矢作俊彦(『あ・じゃ・ぱん』)、丸山健二(『逃げ歌』)は、林真理子(『ミカドの淑女』)、久世光彦(『陛下』)らに、そのまま反転するだろう。問題は、この閉域内に回収される想像力そのものの「頽廃」にある。中野はたぶん、小説が抱え込むこの内閉性と、共和制創出の新鮮さとの異和を直観しつつ、いわば「個としての彼等を解放」するための、「頽廃」から遠い小説を希求し、かつ放棄したのではないか。
 この点を小著への補遺として書き留めておきたいが、小説に果たしてそんな力があるのかどうか。それはいまだ即断の限りではないし、そもそも、「彼等」などではなく、まず自分自身を「解放」する方途として言葉を選んだ人間が、小説家というものでもあるだろう。だが一方で、この一年ほどの間に発表された読み応えのある作品のいくつかが、こぞって、「天皇小説」的な色調を(陰に陽に)示しあうという事実がある。島田雅彦『彗星の住人』、大江健三郎『取り替え子』、高橋源一郎『日本文学盛衰史』、阿部和重『ニッポニアニッポン』、佐川光晴『ジャムの空壜』といった各編がそれにあたるが、これらがどの程度まで「頽廃」の度合いを逃れえて新鮮な達成を遂げているか、いずれ別の機会に検証してみたいと思う。

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