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就任以来、通夜躁病にも似た集団ヒステリーもどきの高支持率を誇る小泉内閣に対し、すでにさまざまな危惧が語られ始めている。語られて当然であり、10パーセント台の支持率が、一夜にして90パーセント近くまで跳ね上がるといった事じたい、端的に亡国の兆しというべきものだが、このなかで、わずかにハンセン病国家賠償請求訴訟をめぐる首相の措置は、その例外的な善政と目されるかもしれない。実際、熊本地裁の判決にたいする控訴断念、国会の謝罪、補償の具体化とつづく昨今の流れは、小泉一個による「極めて異例の判断」(5月25日総理大臣談話)なしには実現しなかったわけで、遅きに失したことは大いに咎められこそすれ、判断それじたいは確かに歓迎すべきものである。だが、ここにも(或いは、ここにこそ)警戒を要する問題があり、一事はまさに、多分に超法規的なその判断の動機として映画『砂の器』(74年、監督・野村芳太郎、脚本・橋本忍、山田洋次)の名が挙げられるところに露呈するだろう。松本清張の原作(61年)にもまして、これは、きわめて差別的な映画であるからだ。 |
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清張の原作では、「業病」に取り憑かれた「忌まわしい父」の手に引かれて各地を放浪した少年時代の「前歴」を抹殺することが、新進音楽家の犯行の動機とされている。作者がミステリー界に導入した、いわゆる「犯行動機の社会性」。だが、一編においてはそのじつ、その動機がハンセン病差別にある必然性はほとんどない。この「業病」は、他の要素と交換可能な、読者の好奇心を刺激するための「借景」として利用されているにすぎず、現に清張の他作では、同じ場所に、同様に皮相なかたちで「被差別部落」が代入されている(『眼の壁』58年)。対して、映画は、この「借景」を「本景」に、推理小説をメロドラマに変換することに腐心する。これにしたがって、脚本は原作を大きく作り替え、この変換は挙げて、映画のラストシーン、30分をこえる(原作にはない)長い回想場面に収斂する。そこでは、捜査本部で逮捕状の請求理由を述べる刑事と、おりしも「宿命」と名付けられたピアノ曲を披露中の犯人との、双方の脳裏に浮かぶ場景として、放浪する父子と周囲の迫害や、親子生き別れの光景から、東京で前途を嘱望されている息子のために、隔離施設を訪れた刑事の前で血涙とともに他人を装う父親の姿などが、芥川也寸志のメロウな音楽とともに、まさしくこれ見よがしに点綴されつづけるのだ。 |
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そのようにして、原作にはない犯人の「内面」を作り出し、ハンセン病差別という動機に「リアリティー」を与えながら、観客の感情移入を誘うこと。確かに、原作の浅薄きわまりない設定に比べるなら、このラストシーンには、「犯行動機の社会性」にまつわる相応の肉付けがなされている。が、問題はまさにその肉付けのなされ方にあり、そこでは、原作と照合すると一種いじましいほど丹念なその努力が一点、ハンセン病は、殺人という異様な事態に釣りあうほど特殊な病である、という等号の設定にかけられてくるのだ。原作にあってはいかにもお座なりに借用されていたその特殊性を、映画は一心に審美化する。審美化は、加藤嘉演ずる父親の挙措・メイクの掻き立てる病標指示の効果と正確に比例することを求められてもいるのだが、かかる作為がどれほど差別的なものであるかは、まさか断るまでもあるまい。それがたんなる病気にすぎぬことは、原作の時点ではすでにほぼ、映画の製作期には(ラストのとってつけたようなテロップも語るごとく)、完全に明白であったからだ。ちなみに、大西巨人の卓論「ハンセン氏病問題」が、この病を扱う文学作品に一貫する「科学的実状に叶わぬ感傷主義」を鋭く論責したのはつとに1955年のことである。 |
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にもかかわらず、こうした映画に「感動し」、患者が「可哀想だ」と痛感したというのは、ハンセン病差別が「面白い」と公言するに等しいではないかと指摘するのは、さる座談会における 秀実の寸言だが、そのとおりだろう。 |
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事実、同じ流儀で特攻隊に「感動し」、靖国参拝に「なぜ反対するのか全く分からない」と公言するこの首相は、『新しい歴史教科書』と同じレベルで、戦争は面白いと叫ぶに等しい。五月場所の千秋楽で、やはり異例の措置として、同じ「感動」の一語と共に、負傷に耐えて優勝した貴乃花を絶賛したことも同断に近い。逆に、負傷にもめげず貴乃花を土俵に這わした力士が、武蔵丸であった場合を仮定してみればよい。小泉は、その外人横綱に対してもまた、「感動」の一語を口にしたかどうか。あれは明らかに、まともに立ち会うのも躊躇するほどの負傷を抱えた相手に、敏感な武蔵丸が演じてしまった無意識の八百長、その一瞬、自分にむけて吹き出した満座の差別感への不意の恭順ともいうべきものであったはずだが、ここでもまた、首相小泉の「感動」は、誰にもまして率直・純真に「俗情との結託」(大西巨人)をはたしていよう。 |
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このようにして最悪の「政治の美学化」が蔓延しはじめるのだとすれば、なおのこと、ハンセン病控訴放棄は小泉だからなしえたなどとは、間違っても称してはなるまい。数十年前に講じられて当然の措置が、かかる心性の持ち主にしかなしえなかった事実をこそ、改めて肝に銘ずべきなのだ。 |
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