Critical Space Archive

カート・ヴォネガット 「無害な非真実」の伝道者
 八〇年代に、ちょっとしたヴォネガット・ブームがあった。若き橋本治が『スラップスティック』を絶賛し、ゼルダのサヨコは「スローターハウス」を歌い踊った。だから僕も学生時代に、ヴォネガットの作品はほとんど読んでいた。彼の代表作を、あの素晴らしい日本語で読ませてくれた浅倉久志、伊藤典夫の両氏にあらためて感謝したい。
 「愛は負けても親切は勝つ」。これがヴォネガット最大のテーマである。彼のエッセイでそれを知って以来、僕はこの言葉を至るところで引用してきた。とりわけ治療場面で。治療が不可能な患者であっても看護は可能であるように、かけらも愛がなくても「親切」にすることはできる。ニヒリズムの極北から生まれたこの思想が、このうえない寛容さにつながることは、アイロニーなのかユーモアなのか。もちろん後者だ。
 ヴォネガットのユーモアは、廃墟の中で、どうしようもなく孤独な人間によって発揮されるそれだ。それは無残なトートロジーであり、しばしば誰に向けられたともつかない独語の形をとっている。一つの絶望から生み出される、軽妙きわまりない表現。「ハイホー。」「そういうものだ。」「プーティーウィッ?」その他いろいろ。そうした表現の極めつけは、やはり代表作『スローターハウス5』にみるべきだろう。第二次大戦に従軍したヴォネガットは、一九四五年春のドレスデン爆撃を捕虜として経験した。連合軍(つまり味方だ)による無差別爆撃による死者は十三万五千人。その筆舌に尽くしがたい経験が、ヴォネガットから言葉を奪う。彼はこの経験を美しくも感動的な物語として記述しようと試みるが、どうしてもそれができない。何年かの苦闘をへてようやく産み落とされた物語は、なんとも奇妙なSFファンタジーであった。
 主人公は旅行者、ビリー・ピルグリム。検眼医の彼もまた、ドイツ軍の捕虜としてドレスデンの爆撃を経験した。彼はトラルファマドール星人の円盤で連れ去られ、彼らの動物園に入れられた。そこで学んだことは、あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、これからも存在し続ける、ということである。以来ビリーは、みずからの人生のあらゆる瞬間を不随意に、断片的に経験するようになる。時制を無視したこの半自伝的小説は、しかし決して読みにくくはない。
 いま読み返すと、これはトラウマとPTSD(トラウマ後ストレス障害)に関する、実に見事な寓話たり得ている。ビリーの経験する「時間旅行」は、あきらかに外傷的記憶のフラッシュバックを意味しているのだろう。つまり、トラルファマドール星人の哲学は、「永劫回帰」の精神医学版にほかならない。そこにはニーチェのそれのような崇高さはすでになく、あるのは「そういうものだ」という、弱々しいつぶやきのみだ。そう、人々は死んでいく。そういうものだ。
 絶望は記憶からもたらされ、希望は忘却の効果である。なにもかもが決定済みであり、あとは単純な反復しかあり得ないことを明晰に知ったうえで、それでも人は意志的に生き延びることが可能であるか? この問いこそは、多くのヴォネガット作品の通奏低音ではなかったか。その物語からはロマン主義的な盛り上がりが慎重に排除され、みずから「無害な非真実」と述べるようなエピソードの断片が積み上げられる。
 たとえば、彼が『猫のゆりかご』で描いた奇妙な宗教、「ボコノン教」は次のように教える。「フォーマ(=無害な非真実)を生きるよるべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする」あるいはまた、「スラップスティック」において、混乱と孤独から人々を救うべく、大統領はミドルネームの共有によって人工的な身内を作る「拡大家族計画」を施行する。これもまた「無害な非真実」のひとつだ。そしてこれこそが彼の「親切」に関する思想の第一歩である。いうまでもなく、「真実」はしばしば外傷的であり耐え難い。真実と有効さの名のもとに、どれだけの犠牲が生み出されてきたか。
 「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」において、狂気にも似た隣人愛に憑かれた大富豪エリオットの行動を賞賛するSF作家、キルゴラ・トラウトは言う。「人間を人間だから大切にするという理由と方法を見つけられなければ……彼らを抹殺したほうがいい、ということになる」と。ここではからずも告白されているのは、ヴォネガットの思想が「人間の固有性」というトラウマ的な非−真実に深く根ざしているということではないか。
 テロ後の世界において、正義と真実はいよいよ声高に叫ばれ、人々は「安全」という名の有効性のもと、みずからの内面までもが規制されることを望みはじめている。ここであらためてヴォネガットの思想を持ち出すことは、決してノスタルジックな身振りではない。そう、ヴォネガットは、いまこそ再読されるべきなのだ。

PAGE TOP
Copyright © 2002 Critical Space Organization.  All rights reserved.
批評空間アーカイヴに戻る 批評空間アーカイヴに戻る
Top Page に戻る Top Page に戻る