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私は今年の夏ハンブルグのカンプナーゲルで開催される世界演劇祭ラオコオン・フェスティヴァル2002のプログラムを作成するため、ハンブルグを拠点としつつ、ここ一年半世界各地の演劇・ダンスを見て回ったが、このハンブルグ通信において、私は、そこで私が目撃したことを中心に、いま、世界各地の優れた演出家、振付家たちがどのような舞台を作りつつあるのか、またグローバリゼイションとか、電脳世界とかいわれる現実に対して、彼ら・彼女たちがどのように応答しているのか、それをどのように舞台の中に刻印しつつあるのかについて報告していきたいと思う。まずは、ラオコオン・フェスティヴァルのクロージングに上演されるサーシャ・ワルツの『ノーボディー』を見たときの衝撃について語ろう。 |
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それは確かに衝撃的なダンスだった。つまり、サーシャ・ワルツの『ノーボディ』(Sasha Waltz、noBody:ベルリン、シャオビューネ、2002年3月)のなかに、私は、電脳世界の新たな局面において、つまり今日のグローバリゼイションの支配と帝国の出現なかで、われわれが追い込まれるようにして経験している身体の状況が、新しいダンス的表象として出現してきているのを感じたのである。ここにあるのはある種の欠落の表象である。おそらく、それは、一九八〇年代後半から九〇年代初めにかけて、フォーサイスやピナ・バウシュ、あるいはヤン・ファーブルやダムタイプなどによって提示された機能不全の身体(ハイジ・ギルピンの用語)とはちがった身体が出現してしまったこととかかわっている。私はそれを錯乱の身体と名づけようと思うが、そのような身体はポール・ヴィリリオが『電脳世界』のなかで分析したような新たな世界の出現とともに出てきた身体であるだろう。 |
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ヴィリリオは、われわれはサイバー世界において距離をまったく奪われてしまったと書いた。遍在性、瞬時性、直接性という三つの属性によって特徴づけられるこの電脳世界において(これらは神の属性である)、われわれは時間と空間、あるいは距離や遅延状態を奪われてしまった(ここから歴史と地理の欠如は容易に生み出される)。この距離と遅延の欠如のなかで、われわれは、反省する機会を持つ事ができない。なぜなら、バフチンも書いているように、身体は空間と時間の広がりのなかでしか存在し得ないのだから。たとえば、われわれはどこかへ向かいながら、その道すがら考える、そして思い直したりするというように、あるいは、議論しながら、それが激しい口論となり、臨界点に達しそうになるとはいえ、その直前で議論を持ち越しにするとかいうように、われわれは身体的に思考するのである。こうして時間や距離の経過のなかで、反省的に振舞うからこそ、われわれのポジションを保持することができていたのである。だがそのような距離がまったく剥奪されてしまったようなこの電脳世界において、われわれ人間はそれにどう対応すべきかその方法を知らないのだ。そのような中で、身体は(精神がではない)錯乱の度を増しつつあるのである。おそらく、身体を表象の軸においたダンスや演劇は、この錯乱する身体にいかに応答するかを問われているはずである。 |
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そして、サーシャ・ワルツの『ノーボディ』のなかには、われわれの身体がどのような状況に追い込まれているのか、芸術家によるその現実観察が見事に結実していると思えるのである。 |
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そもそも、身体を軸に展開される表象の形式であるダンスを作りつづけているものが、そのタイトルをnoBodyと命名すること自体が異常であると私には思われるが、この命名のなかに、ダンスが置かれている現在の状況へと向かおうとするコレオグラファーの意志を、逆説的な形で見て取ることが出来る。何よりも、このダンスが衝撃的なのは、集団的な群舞のなかから脱落していくダンサーの出現の仕方の異様さにおいてである。集団が通りすぎていったあとに死体のようにうち捨てられてあるひとりのダンサーの身体(撲殺されたのだろうか?)、あるいは、集団から遠くはなれてひたすら孤独に舞いつづけるひとりのダンサー、こうしたひとつの身体とこの集団との無関係性の表象のなかには、新しい人間関係が、事実性として浮き彫りにされている。個と集団の関係をどう描くかは古くから舞台芸術の重要な課題であった。たとえば、コロスからヒーローが生み出されたり、あるいは逆に、犠牲者が選び出されたりするとき(ピナ・バウシュの『春の祭典』のように)、ヒーロー、もしくは犠牲者と集団とのあいだには極度の緊張関係が生まれるのであり、そこから空間はドラマチックなエネルギーで満たされるのだった。おそらく、そこにダンスの魅力を感じている人は多いにちがいない。しかし、サーシャ・ワルツの『ノーボディ』において、集団に置き去りにされた死体のようなダンサーと、あるいは、集団から遠くはなれて舞うダンサーと、集団的に動くダンサーたちとの間には引きあう力がいっさい存在しないのだ。そしてまた、誰が取り残されるのかもまったく偶発的であり、こうした不定性とともに次々に姿を、あるいは組み合わせを変えつつ成立する異様な無関係性こそ、このダンスの特徴をなすものだ。しかし、このような異様さこそ、われわれの社会において出現しつつある、社会的関係のあり方ではないのか。 |
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だが、この悲劇的な関係さえもが葬り去られることになる。やがて高いところから流れ出てきて異様に膨れあがっていく巨大なバルーンが舞台空間を完全に生め尽くしてしまい、そのようなとき、もはや集団として動いていたダンサーたちのいる場所もなくなる。彼らもまたこの破壊機械のようなバルーンに完全に排除されてしまうのだ(これは、ポーランドの演出家タデウシュ・カントールの『破壊機械』の引用かもしれない)。バルーンを見つつ私がグローバリゼイションと帝国という言葉を思い浮かべたのはいうまでもない。このあからさまなアリュージョンをさえ恐れないこの演出には力強いものさえ感じるが、こうした状況を見ていると、このように全権を掌握しつつ、人間を完全に排除しようとするバルーン、おそらく、このようにして世界を埋め尽くしてしまう何ものかによって、実は、あの奇妙な無関係性が作り出されていたのではないかと思い当たるのである。 |
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やがて人間たちは、そのバルーンの下から這い出してくる。だが、なぜそのような脱出が可能なのか、その方法は知らされることはない。いや、彼女自身その方法を知らないのだ。にもかかわらず、われわれが脱出も含めてこのダンスに衝撃を受けるのだとすれば、それは、われわれの悲劇的な状況と人間同士の奇妙な無関係性という新たな事実――それがわれわれの置かれた状況である――に向けられたまなざしが存在するとき、そこからの脱出の方法が見出されるかもしれないという希望がないわけではないのだとわれわれが考えているからではないのか。 |
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ベンヤミンは、圧倒的に非力な人間が神々の秩序はよくないと表明したとき、彼らは実際は神々に敗北していくほかないのだが、にもかかわらずそのとき、「反神話的な言語精神(ゲーニウス)」とともに人間が誕生したのであり、そして、その事態を記録したものこそギリシャ悲劇であったと書いているが、まさにそのような精神こそが演劇やダンスの制作に芸術家たちを駆り立てるものだ。サーシャ・ワルツの『ノーボディ』のなかには、グローバリゼイションの新たな展開――その運命的な秩序――に人間がいかに応答しようとしているか、その姿が見事に刻印されていると私は思う。 |
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