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岡崎乾二郎【「国民絵画の創出―菱田春草『落葉』】
 高さ156.4センチ、幅364センチ、六曲一双の画面に描かれた光景は、平均的な身長を有する成人の視線よりも低いこの絵の実寸に見合い、人が足元を見下ろすような視点によって描かれているように見える。言い換えれば、通常の視線が無限に延長されて収斂していく消失点も、それが回転してできる水平線も、その上の空間も、この画面からは断ち切られ、ひたすら、ここに展開するのは水平面から地面までの限られた距離(156.4センチ)の世界である。延長を断ち切られ、浅く抑えられた空間、のはずなのにもかかわらず、この絵は描かれて以来ずっと、そう感嘆されてきたように、無限に深まる空間の感覚を与える。それはなぜか。
菱田春草作『落葉』
六曲一双屏風、右隻
1909(明治42)年
156,4×364cm
紙本直色
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 1909年、この「落葉(らくよう)」と題された屏風絵を第三回文展に出品しようとする間際ぎりぎりになって、菱田春草はこの絵から、すでに描きはじめていた土坡(どは)を消し去る決心をする。土坡とは、地面の表面を示す凹凸、襞であり、つまり地肌。これを描かないということは、地面を示す手掛かりを喪失し、すなわち地面は描かれえない、ということを意味している。
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『落葉』ディテール  拡大: 拡大
 したがって、ここには地面はない。すでに述べたように、空もなく地平線もない。ぼんやりとした淡い枯色の階調だけが画面には塗られている。かろうじて地面を感じることができるとすれば、ただここに、描かれている無数の落ち葉たちから推し測り、その集合が一つの面を形成すると想像するからだろう。けれど地面は実際は描かれていない、あくまでも想像された地面である。だから見ようによっては、落ち葉がただ垂直に立てられた画面の平面を文字どおりすべり落ち、その途中、たまたま画面のどこかに、ピタッと止まった姿と見えないこともない。
 事実、画面の上方ではまだ数の少ない落ち葉が、画面の下方の縁に向かって、積もるように量を増す。その上方から下方へ増大する落ち葉の疎密の割合は、落ち葉が垂直に、絵の表面に沿って落下するときの物理的法則に則しているようにすら見える。そして画面の底に溜まってゆく落ち葉。
 つまり描かれた落ち葉は、遠近法の奥行きに従って斜め後方へと傾斜する地表面に着地しているように見えつつ、同時に、画面に沿って、いままさに落下しつつある途上の姿をも写しているのである。画面に曖昧に塗られた淡い枯色がこの二つの矛盾する平面を溶かしこんでいる。あえて、無限の空間の拡がりがこの絵に表出されていると言うならば、それはひとえにこの暗示された地面の矛盾した性格からくる。当然、この視点を人の視点として求めようとしても不可能である。この視点は誰のものでもありえない。にもかかわらず、この絵は決して支離滅裂でも非現実的でもなく、一つの視点によって統合されうること、つまり視点としては可能であるとリアルに意識させる。
 たとえば、画題通りに、これから果てのない奈落へ落下しつつある「落ち葉」の視点を想定したらどうか。すると、この空間の矛盾した性格はとりあえず解決するのではないか。春草があえて土坡を描かなかったために、人が歩くにはあまりに頼り無く曖昧になってしまっていた地表面も、この奈落に向かって落ちつつある落ち葉がその途上でかろうじて留まった中空と考えれば合点がゆく。
クリックで拡大! 菱田春草作『落葉』
六曲一双屏風、左隻
1909(明治42)年
156,4×364cm
紙本直色
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 奈落に向かって落下していく落ち葉。そんな視点が実際あるのかどうか知るよしもないが、いずれにせよ、菱田春草の『落葉』が、こんな誰のものでもありえない視点を絵画が創出することによって、初めて観客に、これをいま見て体験しているのはただ『自分だけ』なのだという、孤立し、ゆえに突き刺すような痛みをもったリアルな感覚を生みだすことができる、という近代芸術の原理を日本において最も早く実現した傑作であったことは疑いえない。
 揺れ動きながら落下する落ち葉の視点は、唐突だが溝口健二の、あのゆらゆらと揺れ動くカメラの動きも思い起こさせる。客観的で中立公平の位置にあるはずのカメラがよろめくたびに、まるで何モノかが感情をもってその場面を眺めているように感じられる。というより、そのときカメラは、はじめて特定の視点として意識されるのだが、もとよりそれは誰の視点でもありえない、幽体離脱した魂のような視点である。この誰のものでもない視点の創出が戦後のリアリズム−ドキュメンタリズムと結びつけられて理解されたのは、この視点が、分節され孤立した無数の観客の主観の揺らぎ――「私が見ている」――を強く意識させると同時に、それを代表し、リアルな地平として一つに束ねるように働いたからだった。
 日本画に共鳴していた日本映画の一例というよりも、いかにモダニズムはナショナリズムを随伴せざるをえなかったか、ということを伝える逸話である。あてどなく落ちつづける「落ち葉」、根ざすベき場所から離され、ちりぢりにさまよう小さな「国民」たち。共感の地平を構成していたのは、こうした単位だった。

[編集部註]
「国民絵画の創出―菱田春草『落葉』」は、『論座』1998年6月号(朝日新聞社)に掲載された「落ち葉の気持ち」に改稿を加えたものである。
国立東京近代美術館リニューアル展『未完の世紀―20世紀美術が残すもの』(2002年2月9日〜3月31日)での『落葉』展示公開にあたって、岡崎氏には「東京国立近代美術館リニューアル・オープン記念展「未完の世紀―20世紀美術がのこすもの」によせて」というテクストを新たにWeb Critique に書いていただいた。このテクストの前書きとして読んでいただければ幸いである。
アートスフィア灰塚2001 
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