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 構想から5年、ようやく完成されたジャン・リュック・ゴダールの新作が公開された。『愛の讃歌 Eloge de l'amour(邦題・愛の世紀)』と題されたその映画はきわめて簡潔な作品であり、その簡潔さによって、同時代の他の映画との比較において際立っているばかりでなく、商業映画復帰後のこの20年ほどのゴダール自身の映画の中でも特異な政治的性格を獲得している。
 映画は、物語histoire(s)を語れないこと・もしくは物語を語らないことを驚くほど率直に語る。二部に分かたれた映画の第一部はパリを舞台に、ある一人の作家(それが何の作家であるかは明らかにされない)が「愛」をテーマにした物語を語ることに失敗する現在の状況が語られる。続く第二部では、作家の企ての端緒となった二年前のブルターニュへの旅が回顧され、そこで第二次大戦中のカトリシズムとレジスタンスの関係についての資料収集のためにかつての闘士であった老夫婦を訪れた彼は、老夫婦の回想録memoiresの映画化の権利を買収する契約にやってきたアメリカ人と遭遇する。映画はパリに帰還した作家を映し出すラストシーンで締めくくられるが、そこで挿入される作家の声は映画の最初のシーンの作家の声と正確に一致しており、映画は一つの円環として閉じられるのである。
 「そしてまず最初に、あなたは様々な名前を思い出す」。映画の最初と最後に挿入される声はそう言っている。『愛の讃歌』において、90年代のゴダールの一貫したテーマである記憶と物語そしてその歴史との関係が、ここでもまた取り上げられていることは明白だろう。だが、この作品においては映像と言葉のこれ見よがしな引用や破天荒なモンタージュは慎重に排されており、たとえば『映画史』のような過去の膨大な映画的な記憶を強引に統合しようとする巨大なHistoire(s)の試みとは明確な一線が画されている。物語内容と話法の両面で認められる簡潔さは、また映像そのもののレヴェルでも確認されるのであり、パリの夜のシーンを中心に、光を抑制した白黒のフィルムで撮影された第一部も、輪郭が曖昧にされ、滲むような青とオレンジの色彩が誇張されたカラーのヴィデオ画面の第二部も、私たちがこの20年間あまり見慣れてきたヴィヴィッドな色彩と形象を兼ね備えた「あの」ゴダールの映像の美しさを回避するために選択されたかのようだ。
 簡潔な物語と映像の二つのレヴェルにおいて、ゴダールの提出するテーゼは一貫している。United Statesに抗すること。そのテーゼはまず、アメリカ合州国産の映画(ジュリア・ロバーツ、ブルース・ウィリス、スピルバーグ、ジュリエット・ビノシュ、そして分断された『マトリクス』のポスター)に対する強烈なアンチテーゼとして現れる。記憶の固有性を剥奪した上で製造される大衆消費財としての物語や、スペクタキュラーな映像を拒否すること。そもそも「愛」という映画の主題自体が、合州国とは相容れないものだ。なぜなら「合州国」は名前を持たないから。「合州国」? 「アメリカ合州国」? それはアメリカのどこなの? ブラジルもメキシコも合州国よ、だけど彼らにはブラジル人やメキシコ人っていう名前がある、でも合州国の人たちには自分たちの名前がない――貧しいレジスタンスの闘士の孫娘はそう言うだろう。しかし、『愛の讃歌』が幾度も確認するように、そもそもState(国家)自体は愛することも・愛されることもできない存在なのだ。この命題によって、ゴダールのUnited Statesへの抵抗は、ヨーロッパ映画のアメリカ映画への抵抗といった市場の争いからもさらに遠くへ解き放たれている。
 「まず最初に、あなたは様々な名前を思い出す」。たしかにゴダールにおいて記憶は名前と分かちがたく結びついており、『愛の讃歌』のなかでも様々な名前が喚起されてはいる。スペイン市民戦争とバタイユ。ロベール・ブレッソン。コソヴォのアルバニア人たち。廃墟となったビアンクールのルノー工場。ドランシー。シモーヌ・ヴェイユ。あるいはまた、ストローブ=ユイレを想起させる厳格さで長々と映し出されるパリの街中の兵士の墓碑銘。だが、『愛の讃歌』において重要なのはそれらの名前ではない。記憶の問題は、単なる名前の目録とは異なった次元で追求されているからだ。「私が何かあることを考えるとき、私は何かほかのことを考えている」と主人公に言わせるゴダールにおいて、記憶とはすでに名付けられ喚起されたものそのもののことではなく、名前を呼ばれることさえなくそこにある「何か」のことを意味するだろう。その「何か」は、ゴダールの映画を画面の外に向かって開放するものでもあるのだが、同時に、彼があえて物語の中に統合することはせずに、フィルムの中に定着した「何か」に注目しておく必要もあるだろう。たとえば、パリの街中の一隅で毛布にくるまって眠りにつく「無名」のホームレスの男女。むろん登場人物としての名前を持たない人間たちを喚起することが問題なのではない。むしろ、名前や形象によってすでにアイデンティファイされた映像の只中に、アイデンティファイされる以前の無名の光の束を見いだすことこそが重要なのだ。移動するカメラで延々と映し出される「ブーローニュ」の森のその鬱蒼とした繁みの黒の濃淡や、「ブルターニュ」の岸辺の暗い水面に反映する夕陽のオレンジ色の散乱は、形象と物語上の役割によって同定される以前の光と色への遡行であり、そこから様々な記憶が派生してくるような零度の地点を指し示している。名を持たないUnited Statesの一般性の領域の対極に、つねにすでにそこにある光と色の多様な一義性を対置すること。ゴダールの新たな転回は、このただ単にそこにある映像の簡潔さを志向したものであるように思われるのだ。この無名の境地を美学的に昇華することなく、そこから無名の存在を主人公としたいかなる歴史が語られることになるのか。その問題こそが、次回作以降のゴダールの新たな冒険の主題となるべきだろう。
 「私は、いま自分たちの眼差しが国の補助金を受けた管理下のプログラムになってしまったように感じている」――5年間の試行錯誤をへて、資金の窮迫に苦しみながら完成された『愛の讃歌』は、United Statesに抗するゴダールの一つの達成である。スノビズムと韜晦から遠く離れ、万人に開かれたこの静かな映画が、日本でも一日も早く公開されることを願ってやまない。

[編集部註]
 『愛の世紀』(『愛の讃歌 Eloge de l'amour』)は、2002年4月13日より、日比谷シャンテ・シネにてロードショー公開中。以後、大阪、神戸、名古屋、札幌、福岡でも上映予定。
*2001年7月に寄稿頂いた論考を、タイトルを変更し新着原稿として掲載することを許可下さった著者の王寺賢太氏に記して感謝する。

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