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Routledge社の新しいシリーズThinking in actionについては、既に本欄でも浅田彰による紹介がある。今回はそのシリーズの一冊であるヒューバート・ドレイファスの『インターネットについて』*[1]について手短な批判を試みたい。 |
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近年ではフーコーやハイデガーの研究で知られるドレイファスだが、彼の哲学者としての出発点は70年代の人工知能批判にある。明示的な情報の受容とそれに対する反応に焦点を当てて展開されていたかつての人工知能研究に対して、彼は、知能が情報を情報として認知する際に、その枠組み(フレーム)の設定が不可欠であり、人間においては言語化以前の次元にある身体がその役割をになっていると主張した。『インターネットについて』は、かつての人工知能批判を出発点として、インターネット批判を企てる書物である。 |
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ドレイファスはまず、インターネット上の情報が体系なき知識の羅列であり、その情報の検索がキーワードの純粋に形式的な一致によってのみなされていることを確認する。ここから、彼は、意味を考慮に入れることのできないインターネットは、利用者が求める必要かつ有効な情報を与えることができないと断定する。つづいてインターネットによる教育に対しては、教える者と学ぶ者の相互現前と、学習の際の状況へのアンガージュマンの重要性が強調される。だが、ドレイファスの論の核心は、認識論的・コミュニケーション論的な立場からのインターネットの技術的な陥穽の指摘にはない。むしろ彼が目指しているのは、「ヴァーチュアルな世界」の出現に対して、身体がそこにおかれてあるような「現実世界」の道徳を擁護することにあるからだ。彼は、身体こそが他者と事物に対するリアリティの把握の源であり、「現実的」なリスクを伴った「真正」のアンガージュマンこそが人生の意味を与えるものであることを主張する。ドレイファスの立場から見れば、インターネットは「現実世界」のリアリティを根こそぎにするばかりではなく、「ヴァーチュアルな世界」への匿名の、リスクなきアンガージュマンを介して、人間を無関心=無差異の支配するニヒリズムに導くものにほかならないのだ。 |
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『インターネットについて』は、インターネットの登場を身体の束縛と身体のある場所からの解放として言祝ぐユーフォリックな言説に対する批判であり、そのかぎりでドレイファスの論に同意できる部分がないわけではない。インターネットの出現が、身体を中心にして広がる「現実世界」を廃棄するものではないことはたしかだからだ。とはいえ、ドレイファスが、身体の現前する「現実世界」とインターネット上の「ヴァーチュアルな世界」を単純に対立させ、「現実世界」へのアンガージュマンを力説しながら両者の間の二者択一を迫る点で、極めて反動的な性格を持ったものであることは無視することができない。ここで反動的というのは、インターネットという新しいメディアの誕生によって生まれた「ヴァーチュアルな世界」に固有の「リアリティ」や、「現実世界」自体の「リアリティ」の配置転換を考察の対象に乗せずに、われわれにとって既知のものとしてある「リアリティ」を規範として、新たなメディアを道徳的に論難しようとするドレイファスの姿勢のことを言う。 |
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事実、ドレイファスは、メルロー・ポンティやキルケゴールなどいわゆる実存主義の哲学を、現在のインターネットに関する幻想に対して対置することに終始している。その際に明示されてはいないけれども、ドレイファスの最大の参照項となっているのはハイデガーの実存論だろう。「現実」的なリスクを伴った「真正」のアンガージュマンによって、匿名のリスクなきウェブ・サーフィンを批判するドレイファスの行論は、死に向かう存在として自覚する「本来的」な実存によって、日常性の匿名性のうちで「おしゃべり」にふける人々の「頽落」を弾劾したハイデガーの引き写しとさえ言ってよいものだからだ。ドレイファスはさらに、彼の言う「真正」なアンガージュマンを、各自が自分の属する「コミュニティ」(ハイデガーなら「共同存在」と言うところだ)の中で責任を負うことへと結びつける。ことさらハイデガーなどを持ち出さなくとも、「異国遠距離崇拝の伝統心理」(保田與重郎)に対する批判を一つの軸として展開してきた日本の近代思想を知るわれわれにとっては、ドレイファスの論の構造は極めて馴染み深いものだ。むろん、ここでは外国と日本の間の遠近法の転倒が試みられているわけではないが、ドレイファスの背後には、近さと遠さの距離によって秩序づけられた既成の世界=故郷のリアリティそのものの崩壊に対する危機感が控えているからだ。そして、郷愁が「真正さ」や「本来性」の意匠をまとって現れ、「コミュニティ」への真摯なアンガージュマンを求める時にもたらしうる危険については、既に20世紀の歴史が多くを教えている。 |
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ここで、ドレイファスがニヒリズムの支配する世界として性急に否定するインターネットの生んだいくつかの現象に注目しておくことは無駄ではないだろう。たとえばLinuxに代表されるオープンソース運動は、ソフトウェアのソースコードを公開した上で、インターネットを介した広範囲のコンピューター技術者の協業を組織して、「本来性
Eigentlichkeit」ならぬ「所有権 Eigentum」(知的所有権)の概念や、大企業によって体系化された生産の組織に対する重要な異議申し立てを行っている。たしかに、そのインターネット上の技術者たちの協業には身体を脅かす「現実のリスク」もないし、完成するソフトが天才的な一個人の名を特権化することもない。かといってユーザーからのバグの報告を受けてソフトの改善に取り組む彼らに「真正のアンガージュマン」が欠けていると言うことはできない。所有権の争いを欠いたインターネット上で差異を生み出す原動力となっているものが、「ただの楽しみ」(リーナス・トーバルズ)であるということも注目に値するだろう。あるいは他方で、インターネットの登場によって大きな配置転換を遂げつつある「現実世界」の変化を認めることもできる。たとえば、ジェノヴァ・サミットの際にはシアトル、ダボスに続いてアンチ・グローバリズムの運動が多くの参加者を集めた――警察の弾圧は一人の死者さえ出している――が、「先進国」の首脳たちの会談する傍らに数万人のデモ隊を集めたその運動のグローバルな広がりが、インターネットというメディアなしでは決して成立しなかったこともたしかなのだ。 |
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インターネットという新しいメディアは、その「ヴァーチュアルな世界」の上で、そしてまたインターネットによってリンクされる「現実世界」において確実にわれわれの「リアリティ」のありかたを変化させている。その変化は、むろん、単に幸福なものではありえない。だが、新たな状況に対する批判が、既知の「現実世界」への回帰によって説かれるとしたら、それは知的には退屈なものにしかなりえないだろう。ドレイファスのインターネット批判の後になお、インターネットとともにある世界内存在についての考察は、いまだ果たされない課題として残っている。 |
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