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カラヴァッジョ1601年頃の作品とされる『エマオの晩餐』(ロンドン,ナショナル・ギャラリー蔵)[fig.1]に描かれたそれとの類似を根拠に,リオネッロ・ヴェントゥーリはミラノ,アンブロジアーナ美術館の果物籠を描いた静物画をカラヴァッジョの作品と同定した[fig.2]. ヴェントゥーリによれば,この静物画は画家の私的な制作であり,職業上の要請に応じたものではないという.「画家がただの籠を灰色の背景の前に描くことに興味を見出したというのは,これまでなかった.決して強烈な色調ではない.すべての探求は対象の質感を発見することへと向けられる.籠は本物の籐でできている.梨の皮は厚くしっかりとしている.葡萄はやさしく,まぶしく,透き通っている….」とは言え,カラヴァッジョの芸術における自然主義的な側面を強調するロベルト・ロンギもこの『果物籠』(1601年頃)については「盲目的な模写」による現実錯視効果とは異なる側面を認めざるを得なかったように,この静物画は,一度遠近法の定める地点から離れるや現実錯視の力を失う騙し絵に対する批判からか,幾つかの細部が極めて細密に描かれているにも拘わらず,色彩には立体感がなく,空間の再現が宙吊りされている.観者はタピスリーやフレスコ画を眺める時のように,自由に位置を変えることができるだろう.背景の無味乾燥な色彩は画布の表面に平行しているが,そこにはいかなる細部も描かれていない.その欠如はわれわれにこの静物画が描かれている空間の距離を推し量るのを不可能にする.背景を描かれた壁と見なそうにも,その材質を特定できない.影もない.籠がおかれている板は,画面に平行する縁の部分しか見ることができない.その左側の部分から材料が木であることを辛うじて想像できる.籠そのものも側面のみが与えられ,その正確な形態は分からない.丸い籠なのか楕円形なのか.葉はすべて平行で,その間に距離がない.画面の枠によって切り取られている右側の二枚の葉は背景や縁と同じように,単一の色調で塗られている.この静物画はしたがって,遠近法の線による構築ではなく,眼差しと直行する平面から構成されていると言って良い.奥行きは描かれている事物の重なりを通してに推測するよりない. |
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アンブロジアーナの『果物籠』を論じたテクスト(Michel Butor,
'La corbeille de l'Ambrosienne', in Repertoire III, Minuit,
1968)の中で,ミシェル・ビュトールは作品の異種混合性を強調している.ビュトールが注目するのは,マルメロ,無花果,葡萄の葉の上に散らばる水滴の全く筆の跡を残さぬ丁寧な仕上げを果物や背景の壁の大らかな筆使いとの対比だ.この静物画の対象の残されたごく僅かな水滴が逆に,対象そのものに乾いた印象を与える.静物画を制作する際の常道に倣って,果物を丁寧に洗い,磨く作業を省略したかのようだ.水滴に反射する光が,絵画の中の採光を定めているのに対し,抽象的な背景は方向が定まらぬ筆触からなっている.その方向の多様さは,光の方向を動揺させる.さらに言えば,ほとんど騙し絵のごとき水滴だが,錯視は長く続かない.水滴を周囲から際立たせている側面からの採光の反射が,展示されているタブローに当たる正面からの光と矛盾しているからだ.この水滴は結局のところ,見る者が立つ現実の場から絵画内に提示されている対象を切り離し,それらが人工を通して視覚に供されているという事実へと送り返すこととなろう.計測不可能な奥行きはこの絵にある種のダイナミズムをもたらす.線による遠近法をはじめとする表象再現の装置によって三次元空間が定義されている場合,諸々の対象はそれが宛がわれた距離に凍結してしまうのだが,『果物籠』の対象は決して一つところに留まっていない.籠は縁しか見えていない板(?)の上に置かれており,その縁を見るものは画布の表面と重ね合わせる.しかしながら,籠は縁からはみ出し,そこに影を落としている.画布に平行な色面が分裂し,距離の定まらぬ背景から見る者の方へ接近してくる.対象が見出される場と絵画の場の分離,ある種の宙吊りが対象から重さを奪う. |
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今,東京都庭園美術館に来ている『カラヴァッジョ:光と影の巨匠――バロック絵画の先駆者たち』展(東京では2001年12月16日まで,その後2001年12月22日から2002年2月24日まで岡崎市美術博物館に巡回)で,われわれはこうした状況の中でなお対象がある種の現実性を失わなず,質量感を得るという,カラヴァッジョの驚くべき技術を,幸か不幸か並べて展示されているその追随者たちの作品との対比を通して明確に知ることとなろう. それは同時に,光と影といった些か具体性を欠いた紋切り型の言葉で,美術史の影響関係を云々することの危険をも露呈させることとなるに違いない.たとえば,今回の展覧会でも見ることができる『ナルキッソス』[fig.3]にも顕著なように,カラヴァッジョにあって,光の当たる明るい部分は,そのすぐ傍の暗い部分とではなく,別の場所の明るい部分と結び付き,時に暗い部分は背景と一体化することすらある. 画布上で身体はしたがって,一度暴力的に切断され,観者の見る行為を通して初めて一つに統合されるのだ. 果物籠の静物は『エマオの食卓』以外にも,『病めるバッカス』(1593年頃)[fig.4],『果物籠を持つ少年』(展示作品,1593年頃)[fig.5]にも描かれているが,それらの作品において顕著なのは,論者によっては,静物を提示するための単なる口実ともみなされかれない,健康ないしは不健康な少年が,上に触れた事情から,浮遊しかねない事物を画布上に定着させるために重要な役割を担っている.病めるバッカスの冷えた唇や鼻は手にしている緑色の葡萄の青白さによって正確に反復される.病ゆえの後退が,机の手前に置かれた黒い葡萄によって釣り合いを得る.首を傾げる健康な少年の頬の赤みは,果物の赤と共鳴する.カラヴァッジョの絵の恒常性を与えているのは,ある一方向への過剰が常に別の方向への後退と釣り合いを保っていることに他ならない.さらに,カラヴァッジョにあっては筆触の違いが微妙な量感を補い,画布の中に対象を組み込むのに一役買っている.光は多くの場合画布と平行に与えられ,とりわけ静物画のように多くの対象を描いた場合,ある対象が別の対象に影を落とし,輪郭線を強調している.そのことは対象相互を切り離し,色面として浮き立たせると同時にそれぞれを連結してもいる.ある作品では描かれた人物の表情が,またある作品では何らかの色彩が,画布の上で悲しいほどに突出してしまう追随者たちにあって,そうした可動性と連続性の微妙な配分は到底望むべくもないだろう. |
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ところで,今回の展覧会にあわせて,非常に興味深い書物が刊行されている.それは「鏡/鑑(speculum)」を標題に掲げる(岡田温司編,『カラヴァッジョ鑑』,人文書院).西欧では中世以降,「鏡」を対象とする書物以上に「鑑」と題された書物が多くものされてきた.学術的というより教育を目的としていたそうした書物の対象はあまりに広範に及ぶがゆえに「鑑」という言葉は単なる「手引き」ないしは「要諦」の謂いに留まっているようにすら思われたほどだ.しかしながら,「鑑」という言葉は決して無色透明という訳ではなかった.それは人間をミクロコスモスとする見方とも結び付き,その名を冠した書物はあらゆる思考,活動の場,学問分野を網羅せんとする野心ともども,様々に集約された世界観,自然や歴史に関する知から動植物,鉱物の目録に至るまで,万人に理解可能な形で提示することを目的としていた.「鏡」がそうであるように,世界を平面化し,手本となる教訓を引き出さんとするそうした書物は,網羅的であると同時に効率的であるべしというそもそも矛盾した命題を掲げており,しばしば体系的であることや論理的な構築性を放棄せざるを得なかった.知の在り様を問うことよりむしろ,創造主の栄光を一層輝かせる役割を委ねられた「鑑」の著者の痕跡はしたがって,可能な限り消し去らねばならない.書物としての質量感,そしてそうした書物の制作に費やされた膨大な時間が,求められるメディアとしての透明性とは相容れないとしてもだ.やはり大部となった『カラヴァッジョ鑑』の「鏡」は何を映し出しているいるのか.注ぎ込まれる光が強烈過ぎるとき,鏡には盲点(macula)が生じ,像を結ばなくなるという.通俗化のための書物というよりむしろ,翻訳と気鋭の研究者の論考を集めたこの「鑑」はいかなるカラヴァッジョの像を我々に示すのだろうか. |
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