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 アルノー・ヴィラーニ著『雀蜂と蘭――ジル・ドゥルーズに関する試論』(Arnaud Villani, La guepe et l'orchidee -- Essai sur Gilles Deleuze, Belin, 1999)に収録された、著者による短いインタビューの中で、ドゥルーズは、「あなたは形而上学者ではない哲学者なのでしょうか?」という質問に答えて、「いいえ、私は純粋な形而上学者であると自覚しています」と述べている(p.130)。
 この答えは、三つの仕方で解釈することが出来る。
 まず、自分の哲学は形而上学批判のように見えるが、実のところ、自分も形而上学者に過ぎないという意味で。この場合、ドゥルーズの発言は一つの謙遜として捉えられことになる。なぜならそこには、望むべき「形而上学者でない哲学者」の可能性が温存されているからである。
 だが、この可能性を全面的に否定する解釈もまた可能である。つまり、形而上学者でない哲学者はいないのであって、自分は純粋に哲学者であるから、純粋に形而上学者なのだ、と。このように捉えると、この発言は、非常に強い口調をもった批判、哲学そのものに対する批判として現れてくる。
 更に、批判として捉えられることによって、この発言は、次の解釈の余地を潜在的に身に宿すことになる――そもそも、この質問が間違っている。哲学者である者などは、皆、形而上学者である。大切なのは、哲学者になることだ…。
 これら三つの解釈の可能性は、上記の発言の中に共存しており、そのうちの一つだけを取り出すことは出来ない。大切なのは、この三つのすべてについて考えることである。
 これら三つの可能性は、ドゥルーズの主要三側面を要約するものだ。第一に、優秀なしかし伝統的な哲学研究。第二に、哲学批判としての哲学。第三に、哲学から出ていく哲学。
 ドゥルーズを巡る議論の多くが、この三点のうちのいくつかを恣意的に取り上げているように思われる。しかしそもそもこの三点は、彼の仕事の中に分かちがたく共存していたはずだ。彼の哲学研究が哲学批判たり得たのは、その研究が恐ろしく緻密だったからであるし、ガタリとの共同作業に見られるようなもはや哲学の閾には収まらない思考の運動が可能だったのは、それを潜在的に準備する哲学批判が彼の哲学研究の中に胚胎していたからである。
 そろそろ我々は、これら三点を総合するドゥルーズの全体像を打ち立てねばならないのではないか。単行本未収録テクスト及びインタビューをまとめたL'Ile deserte et autres textes (Minuit, 2002)の出版は、そこに向けた第一歩を踏み出すための恰好の機会を提供していると言ってよいだろう。今回『批評空間』に掲載される文章では、同論集においてはじめて公にされた1950年代のテクスト、「無人島、その原因と理由」を紹介するとともに、それを手がかりにしながら、上の課題が提起する諸問題を――上とは別の視点からであるが――出来る限り明晰判明に整理するよう努めた。この文章が、今後どこから出てくるか分からない、来るべきドゥルーズ論のための準備作業であることが出来たなら、筆者にとってこれほどうれしいことはない。

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