Web CRITIQUE

成瀬巳喜男の重要性/伊藤洋司
 シネマテーク・フランセーズの2001年における最大の成功のひとつは、連日長蛇の列ができる盛況だった成瀬巳喜男特集だろう。フランスのシネフィルは日本映画に常に強い関心を抱いており、シネマテークも、1998年の溝口健二特集と加藤泰特集、2000年の三隅研次特集、2001年の成瀬巳喜男特集と今村昌平特集といったように毎年のように日本の映画監督の特集を組んでいる。今でこそ成瀬巳喜男は日本の最も重要な映画監督の一人とみなされているが、ヨーロッパが成瀬を発見したのは実はごく最近のことにすぎない。1983年にロカルノ映画祭で行なわれた彼の回顧特集がその重要な契機であったが、その際に出版された書物では、例えば、成瀬の映画にはいかなるヒューマニズムも、ナチュラリズムも、アイディアリズムも存在せず、ただ厳格なリアリズムを提示するといった断言がなされつつ、その本格的な評価が行なわれた。こうして世界的な映画作家となった成瀬だが、シネマテーク・フランセーズの特集に先立つ近年の重要な出来事は、1998年に行なわれたサンセバスチャン国際映画祭での成瀬巳喜男特集で、特にこの時出版された本は、ヨーロッパにおける成瀬理解に大きな展開を与えるものであった。
 では、成瀬巳喜男の重要性とは一体どのような点にあるのだろうか。例えば、成瀬の映画ではいつも雨が素晴らしいとか、『鶴八鶴次郎』や『おかあさん』などの逆光のショットが美しいと言うことも、確かにできる。ただし、ショットが絵画的に美しいからといってそのことがただちに映画的であるとは言えない。そうした美しいショットを支える技術の高さに注目しても、技術はそれ自体で絶対的な価値を持つものではありえない。確かに最近の映画は、雨ひとつまともに撮ることのできないようなものが多く、この点で、成瀬組の技術力を賞揚することも重要なことではある。しかし一方で、技術に対する絶対的な信奉により技術的スノビズムとでも呼ぶべきものに陥っている映画も、近年確かに存在するのである。
 『おかあさん』は母(田中絹代)と娘(香川京子)を中心とするある家族の物語だが、この家族という共同体に男性はとどまることができず、長男と父親は死に、よそからやって来る他の男たちもやがては出て行かねばならない運命にある。従って真の悲劇は、二人の男の相次ぐ死ではなく次女が里子に行ってしまうことにあり、この女の子が連れて行かれるまさにそのショットが逆光で見事に撮られているために、人は深く感動するのである。また、成瀬の映画の雨は単に降るのではなく、『驟雨』のようにしばしばふと降り出したりあるいはやんだりするのだが、それ以上に、人間関係、特に男女の関係が変化する重要なシーンで雨が降ることに注意しなければならない。『お国と五平』、『放浪記』、『乱れ雲』で雨がいつ降っていたかを思い出そう。このように、逆光や雨のショットは単に美しいのではなく、物語の語りと緊密な関係を持っている、言い換えれば、主題論的な体系と説話論的な構造が緊密に連繋しているのであり、このことが重要なのである。
 成瀬的物語とは何かについて考察してみよう。登場人物を考えてみると、『妻として女として』の森雅之のように、成瀬の映画の男はいつも異様なまでに情けなく、その一方で女はいつもある種の力強さを持っている。成瀬の女の描き方はいつも見事で、女の激しい情念が社会の制度や慣習と衝突し、激しい葛藤が生じるという物語がしばしば語られている。社会的関係を問うために、成瀬はしばしば家庭というミクロな場を描く。結末は様々だが、『浮雲』や『乱れる』では、ヒロイン(高峰秀子)は最後に社会的関係を捨てて自分の情念を肯定するに至る。こうした女性像を繰り返し描くことによって、成瀬は映画作家としてフェミニストになり得たと言うことも可能である。こうした成瀬的物語を実に巧みに語った例のひとつが、谷崎潤一郎原作の『お国と五平』である。夫の仇討ちのために忠臣の五平を連れて旅に出るお国(木暮実千代)を描くこの一種のロード・ムービーで、身分の違う二人の間に生まれる愛情のために旅の目的があやふやになり、二人の道中は、共同体に承認された正義の遂行から絶望的な愛の道行きへと変化していく。仇討ちの相手は、意識下に抑えられた葛藤を顕在化するものとして現れるのだが、お国は、言ってみれば五平を単に一人の男として愛しているのに対し、五平は、社会的存在としてもお国を愛しており、この違いが二人の間に絶望的に横たわることになるのだ。
 最近の若手の日本映画が女性をまるで描けていないという状況を考えれば、成瀬は、女性を実に見事に描き続けたということだけでも、今日的な意味を持つと言えるだろう。だがここで、成瀬的物語をもうひとつ別の角度から考察してみたい。泉鏡花原作の『歌行燈』は成瀬の最高傑作と言えるが、この映画では、ある男を自害へと追い込んでしまった花柳章太郎が、その死の記憶に苦しみ続けることになる。この驚くべき怪奇映画のように、成瀬の作品では時折、映画の始まりのほうで人が死ぬ。『お国と五平』のヒロインの夫、『おかあさん』の家族の長男と父親、『ひき逃げ』のヒロインの一人息子、『乱れ雲』のヒロインの夫といったように、次々と人が死んでいき、主人公はこの死者の記憶に何らかの形でとりつかれるのだ。この頻繁ではないが確実に繰り返される物語もまた、重要な成瀬的物語のひとつであり、この点で、成瀬は中川信夫に匹敵する亡霊映画作家であると言っても言い過ぎではない。亡霊は映画の本質的な要素のひとつであると言えるほど、映画史は数多くの亡霊を繰り返し描いてきたが、近年は、映画の冒頭で人が死ぬことが密かな流行になってさえいるようで、2001年のカンヌ映画祭ではモレッティ、オリヴェイラ、レシャ、ツァイ・ミンリァン、ショーン・ペンとコンペ部門に一種の喪の物語が軒並み並び、「ル・モンド」紙が今年の傾向は亡霊であると断言したほどだ。この傾向を見るだけでも、今日の映画作家たちの重要な関心事を成瀬は先取りしていたと言えるのである。
 しかし、亡霊の主題はさらに重要なもうひとつの成瀬的主題を導き出す役割を果たしていることに、注意しなければならない。司葉子と加山雄三が死んだ男の記憶にとりつかれる『乱れ雲』は成瀬の遺作であり、『歌行燈』や『鶴八鶴次郎』と並ぶ彼の最高作のひとつであるが、この映画が分かりやすく示しているように、成瀬の映画はしばしば、過去の記憶(目に見えないもの)にとりつかれた者たちがいかにして現在(目に見えるもの)と遭遇するか(あるいはしないか)という物語を語っている。これこそが最も重要な成瀬的物語であると言ってよく、亡霊の登場しない映画でもこの物語は繰り返され、現在との遭遇という主題が現れている。成瀬にとって、過去(亡霊)は一種の罠であり、現在との遭遇が最も重要な探求の対象なのである。成瀬の映画がリアリズムであるというのが正しいならば、このリアリズムは現在の追求という意味において捉えられねばならない。
 この文章は成瀬的物語を読解してきたが、ここで誤解を避けるために急いで付け加えるならば、成瀬巳喜男は、物語を巧みに語りその物語で何かを示すだけの映画監督では決してない。成瀬のトーキー第一作、『乙女ごころ三人姉妹』を見る観客は、ショットのつなぎが斬新で、思いもよらぬショットが次々と現れるため、一瞬ごとに激しい動揺と興奮を体験するだろう。ただしこのことは、サイレント映画の画面のつなぎの影響を強く残し、音を実験的に使用するという、トーキー初期に特徴的なスタイルでこの映画が撮られていることと密接に関係しており、他の成瀬の映画では、このような形での画面と音の直接的な露呈はむしろ例外的である。成瀬の映画における画面と音とは、最初に指摘した雨や逆光のショットがその典型的な例であるように、物語の語りと密接に結びつきながら、物語の至る所で露呈してくるものである。現在との遭遇とは、今目の前で生起している事柄をそのまま瞳が受け止めることに他ならない。成瀬の映画で細部が重要になるのはこのためである。成瀬は登場人物のごく些細な動きや表情にも気を配るのだ。こうしたことが、物語のレヴェルで現れる現在との遭遇の主題に厳格に対応しているのである。
 こうしてみると、過去の役割と現在との遭遇、そしてこれらと結びつく画面の露呈といった点で、成瀬的リアリズムは、ロッセリーニ的ネオレアリスモとある種のつながりを持っていることに気がつくだろう。ロベルト・ロッセリーニが優れて現代的な映画作家であるように、成瀬巳喜男の映画は極めて重要な現代性を持っているのである。

PAGE TOP
Copyright © 2002 Critical Space Organization.  All rights reserved.
Web CRITIQUE に戻る Web CRITIQUE に戻る
Top Page に戻る Top Page に戻る