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フランスのシネフィリーのある傾向/伊藤洋司
 シネマテーク・フランセーズはジャン・シャルル・タケラ体制になってから問題が山積しており俄かには支持できないのだが、近年のプログラムに見られるある傾向は注目するに値すると思う。シネマテークは二つの小屋を持っているが、グラン・ブールヴァールのほうでは、2001年11月から2002年1月初頭までに、ヨーロッパ製西部劇、ジョージ・A・ロメロ、映画とサド、ティント・ブラスという四つの特集が続けて組まれ、これまでしばしば低俗とみなされてきたジャンルの作品が数多く上映された。これは今急に始まったことではなく、1997年のジョゼ・ベナゼラフ特集、1998年のブラックスプロイテーション特集、1999年のダリオ・アルジェント特集、ジョー・ダンテ&ロジャー・コーマン第二世代特集、2000年のジャック・アーノルド特集、2001年のドナルド・キャメル特集などが示すように、近年の一般的な傾向である。この傾向はおそらく、「シネマ・ビス」の開始にまで溯るだろう。二週間に一度金曜の夜に行なわれるこの催しでは、従来のシネフィルが見向きもしなかったような映画が積極的に上映され、パリにおける新しいタイプのシネフィリーの動きを生み出した。ジェス・フランコの映画が特に崇められ、イタリアのホラーやジャロといったジャンルの映画が好んで上映されているが、レプブリックにシネマテークの小屋があった頃のシネマ・ビスは、クレジットにいい役者や監督の名前が出るたびにみんなが拍手し、様々な場面で掛け声がかかり、シネフィリーの熱狂を一番直接的に感じられる機会であった。シネマテークはさらに、ポルノ映画のオールナイト上映会も開催している。
 こうした特集の傾向は勿論、プログラマーのジャン・フランソワ・ロジェの意図的な選択であるのだが、シネマテーク・フランセーズの特集はしばしばヨーロッパの様々な映画祭と連繋しており、例えばヨーロッパ製西部劇特集はアミアン映画祭と、ロメロ特集はトリノ映画祭と提携していた。だから、単にシネマテーク・フランセーズひとつの傾向ではなく、ヨーロッパの数多くの映画祭が今、これまで軽蔑されることの多かった、60年代、70年代を中心とするある種のジャンル映画の読み直しをしようとしているのである。
 こうした傾向に顔をしかめる昔ながらのシネフィルも確かにいるだろう。しかし、シネマテーク・フランセーズの常連たちの様子を見ると、グレゴリー・ラキャヴァ特集やジョン・M・スタール特集に通うのと同じように、シネマ・ビスや、時折上映されるハードコア・ポルノの上映に顔を見せているようだ。考えてみれば、ヌーヴェル・ヴァーグ期の「カイエ・デュ・シネマ」は、当時軽視されがちだったハリウッドのB級映画の監督たちを真剣に擁護して、彼らを巨匠にしたのだった。また、70年代末から80年代初頭には、この「カイエ」で若手がジョン・カーペンター、デヴィッド・クローネンバーグ、ジョー・ダンテといった監督を擁護し、雑誌は支持を回復した。現在、読み直されつつある映画は、同時代に「カイエ」が評価してこなかったものであるが、「カイエ」もアルジェントの記事を書き、ロメロの特集を組んだりして、必死に新しい動きに遅れまいとしている。
 この文章は、こうした動きを紹介することによって、日本のシネフィリーのモードを変え、従来の巨匠たちを貶めることを目的としているのでは勿論ない。他人とは違った映画を誉めたいばかりに明らかにたいしたことのない映画を絶賛し、その結果、正真正銘の傑作を軽視してしまうとしたら、これは大きな問題である。しかし、多様な映画を、その内容などによっていくつかに分類し、ある種の映画は別の映画より劣っていると安易に決めつけるのも、おかしな状況である。こうしたヒエラルキーはシネフィリーには無用であり、なくなるべきである。ただ、良くできた映画と良くない映画があるだけなのだ。
 従って、新しく評価されてきている監督たちが全ていいというのでもない。例えば、ロメロ特集に若いシネフィルが熱狂的に駆けつけ小屋が満杯になる一方で、シネマテークのシャイヨー宮のほうの小屋で同時期に行なわれたイエジー・スコリモフスキー特集に少数の常連しか集まっていないのを見ると、なんとも寂しい思いがする。ロメロの映画にも面白いものはあるが、私の考えでは、スコリモフスキーのほうがロメロより圧倒的に重要な映画監督である。
 そもそも、従来のシネフィリーから見て当然高い評価を受けていい筈の数多くの映画が、日本で軽視されたり知られないままになっているのは、すぐにも訂正されるべきことだ。例えば、ニノ・オクシリアの「サタンのラプソディ」(Rapsodia Satanica)、ウィリアム・ディターレの「悪魔の金」、ヒューゴー・フレゴニーズの「かろうじての犯罪者」(Apenas un delincuente)、アラン・ドワンの「断崖の河」といった映画だが、シネフィリーのモードの変遷とは関係なく擁護すべきものである。とりわけ、ディターレに対する軽視には許し難いものがある。
 一方で、今まで低俗だとされてきた映画のなかにも、重要な映画は数多くあり、これらも本気で擁護しなければならない。例えば、ジェス・フランコの「ブラック・コンテス」(La Comtesse noire)やアントニオ・マルゲリティの「風が暴力を運んできた」(E Dio disse a Caino)は、ジャック・リヴェットの「アウト・ワン」(ロング・バージョン)やフィリップ・ガレルの「現像液」に匹敵する傑作だし、マリオ・バーバの「モデル連続殺人!」やリカルド・フレーダの「スペクトル」(Lo spettro)も決定的に重要な作品である。90年代の傑作、ダリオ・アルジェントの「スタンダールシンドローム」とツイ・ハークの「ブレード/刀」も忘れられがちだ。この文章はこうした映画を擁護するために書かれたようなものである。

 フランスのシネフィリーの動向では、実験映画を好むシネフィルが増えていることも重要だが、ここでは紹介できなかった。ところで、フランスの真似をさせようとしてこういう文章を書いたのではないということだけは、強調しておきたい。ある種の映画が不当に軽蔑されるようなことがないようにすることこそ、重要なのである。本当は、いくつかの映画を素晴らしいと断言した以上、その根拠となるパースペクティブを示すべきなのだが、ここではその余裕がない。良い映画と悪い映画といっても、その基準が示されなければ何の意味もない。基準といっても絶対的な基準など存在しないのだが、相対的なものはやはり提示されるべきであり、この先折りを見て明らかにしていきたいと思う。シネフィルというのは結局それぞれが自分の好みを持つものだから、あらゆる種類の映画を見たうえで、実験映画やいわゆる低俗な映画は受け入れられないと判断する人は当然いるだろう。しかし、好みの基準を真剣に考察することもなく、数えるほどの映画を見ただけである種の映画を一緒くたに否定してしまうのは、私は良くないことだと思う。

 この文章を読む人のほとんどはシネフィルではないだろうから、こうしたことを云々するのではなく、まず何よりエロール・フリン主演の「海賊ブラッド」と「シー・ホーク」を見よと断言することのほうが重要だとも思う。とはいえ、他人には分かりづらいかもしれないが、映画を見るために生まれてきたようなシネフィルにしか書けないこともあると思う。そうしたこともまた、それなりの重要性を持っているのである。

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