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未知の何かに出会った瞬間、即興的に機敏に反応すること。たとえば、空間的に構築された楽曲の抽象的な枠組みの中で突出する楽興の時。都市の隙間を縫って吹き抜ける風の気まぐれな流れのように。 |
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多声的な構造を見通す緻密な設計に基づくイオセリアーニの映画には、想像力を誘惑する無数の穴が開けられている。複数の人物が織りなす小説風の奇妙な物語は映画的連想を働かせるための仮の動機にすぎない。 |
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イオセリアーニの映画で事件を組み合わせ、人物の心理を生き生きと描く手法は、クロースアップや切り返しではなく、あくまでも緩やかなロングショットの長廻しにおける無声映画的なアクションや身ぶりであり、直接的な感情移入を容易にする「見た目」のショットは排除される。 |
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超越的な視点から、まるで時計仕掛けの歯車のように観察されるイオセリアーニの喜劇的な人物は、個性的な長所と短所、なんらかのいかがわしさ、生々しい性癖をもち、状況に応じて、直感を働かせ、機転をきかせて対処することに長けている。 |
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いったん、物語の歯車が動き出すと、イオセリアーニの映画は次々と思いがけない事件を描き出す。ぐずぐずと停滞していたかと思うと、たて続けに奇妙な出来事の起きるその滑稽なテンポは、たとえば『歌うツグミがおりました』(日本未公開)の、まるで落ち着きのない主人公ギヤのテンポでもある。 |
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イオセリアーニの映画が貴重なのは、たんなる感情移入によって身近に感じられる人生をしみじみと考えさせるだけでなく、通俗的な人間観や世間観を揺り動かす、反文学、反美学的な挑発性に満ちているからだ。 |
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イオセリアーニが重視するのは、複数の声部の観念的な調和や静的な詩情ではなく、通俗的な予期図式のゆらぎである。善と悪、明と暗、好感と嫌悪感、味方と敵の対立図式は常に変化する。 |
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ポランスキとの共同作業で知られるジェラール・ブラッシュの脚本に基づく、フランス移住後の第一作『月の寵児たち』(日本未公開)で、アラブ人テロリストや、第一次大戦従軍兵の銅像を爆破するアナキストの音楽教師を登場させたイオセリアーニの『そして光ありき』(日本未公開)以後の作品は、階級の横断や、人間関係の組み替え、社会通念の破壊や転倒による笑いと共に、爆破物の爆発に象徴される目に見えない暴力や怨恨の恐ろしさを間接的に描こうとしている。 |
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冷戦構造の解体と共に、国境を越えた資本の自己拡大運動、自由の名の下に行使される集団的暴力は、あらゆる調和、人間の尊厳を破壊していく。映像をもたない最も貧しい者の権利が最も破壊され、まことしやかな物語を蔓延させる映像消費文化の暴力が抑制されることのない時代、不透明な社会に対する想像力を鍛え上げるシネマという制度に対して自己批判的な異端の映画は、想像力を麻痺させ、幻想の反復的な消費を駆り立てる映像消費文化に抵抗する。 |
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人は身分を表す衣装によってその社会的な意味を変える。そこで、詩的な夢想と共に社会的風刺にも満ちたイオセリアーニの映画は衣装劇として見ることもできる。イオセリアーニ的人物は、役割を替え、衣装を替え、あらゆる境界を軽がると越える。『落葉』で管理職を表わす白衣を着るのを拒むニコ、『歌うツグミがおりました』の仲間に借りたネクタイを着けることで瞬時のうちに交響楽団の一員へと変身する呑気なティンパニー奏者ギヤのように、彼らは、自分たちの生きる社会の秩序を揺り動かし、慣れ親しんだ判断図式を狂わせる。 |
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『落葉』の新米の醸造技師ニコが、熟練した酒造職人と、自己保身的な工場管理者の階級的対立を超える過激な道化的存在だったように、『素敵な歌と舟はゆく』のニコラもまた、ブルジョワ一家の城館と、無産階級の路上生活者のうろつく危険な界隈を横断する。興味深いことに、出勤する朝、階段の手摺を軽やかにすべり下りる『落葉』のニコの身ぶりは、城館内の階段の手すりをすべり下りる『素敵な歌と舟はゆく』のニコラの身ぶりとそっくりだ。 |
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『そして光ありき』は、独自の魔術的文化をもつアフリカ奥地のある集落の黒人が、経済的侵略者である白人の衣装を身につけるまでの物語だし、グルジアと思われる土地の住民に対するさまざまな文明の支配の入れ代わりの歴史を背景に、同じ俳優が時代を越えた複数の役を演じる『群盗、第七章』(日本未公開)では、革命による体制の変化を示すのは、同じ人物の着る衣装の差異である。『素敵な歌と舟はゆく』でもまた、大金持ちの息子ニコラと極貧の鉄道清掃員が着替えることで状況が新たな局面へと移行する。 |
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このように、イオセリアーニは、ギリシャ神話、シェイクスピアからマーク・トゥエインに至る文明風刺的な衣装交替劇の伝統をも継承している。 |
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イオセリアーニの描く自分勝手な人物は、万事自己流であり、金儲けや権力闘争や幼児的な自己主張とは無縁である。それでいながら、イオセリアーニの映画では、人と人の慎ましく微笑ましい交流が実にさりげなく描かれもする。『落葉』や『歌うツグミがおりました』の舗道では、見ず知らずの通行人が、すれ違う相手の求めに応じて即座にタバコを提供するし、『落葉』の混み合うバスの中では、互いに面識もない人々の手づたいに小銭と乗車券が移動するのだが、その瞬間的な手際のよさと円滑な間合いは、実に洗練されている。 |
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人々の調和が実現する最も心なごむイオセリアーニ的な光景は、親密な雰囲気の酒宴である。酒を酌み交わすうちに、興が乗り、ある旋律に対する対抗旋律の応酬が始まる。単純な建築美を思わせる多声的な歌声。そう、たとえグルジア以外の土地で撮られる場合でも、イオセリアーニの作品には、そうした場面が欠かせない。 |
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そして、酒と音楽には、満月の光も欠かせない。『落葉』の、週末にワイン工場の労働者ダトの家で同僚たちの酒宴が行なわれた夜の月。『田園詩』の、都会から来た音楽家たちが寄宿先の農家の隣家で民謡を歌うジュエベとその妹の歌を録音した夜の月。『そして光ありき』の、アフリカ奥地の平和な集落の人々が日没を見つめた後、焚火を囲んで歌う夜の月。『蝶採り』(日本未公開)の、急死した老婦人の姪が城館の撞球台のある部屋で自分の母の相続した財産の大きさを想像する夜の月。『群盗、第七章』の、あきらかにソヴィエト連邦共和国をモデルとした全体主義国家の支配者たちが秘密警察長官の家の晩餐会に招かれた夜の月。 |
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月夜に友人たちと酒を酌み交わし、歌を歌うこと。それが、イオセリアーニ的な無責任で快楽好きの人物にとっての理想の場面である。 |
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ああ、理屈なんてどうでもいい。とにかく画面に見入って、音に耳を澄ますこと。そうやってイオセリアーニの映画的魔術に一度はまってしまうと病みつきになる。 |
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たとえば『素敵な歌と舟はゆく』の冒頭の主人公の一番下の妹が窓を見つめる表情(これは映画の最後で反復される)、この小さな女の子が小さな馬に乗ってお屋敷の前の道をわたって門をくぐり、ゆっくりと庭園を通る無償の瞬間が、この小さなキャラクターをあたかも実在の生きている人間のように生々しく愛らしく描き出す。「人間を描く」とは、実はこういう些細な身ぶりを的確にとらえることなのではないだろうか。 |
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筆者にとってイオセリアーニは最も偏愛し尊敬する映画作家であり、新作に対する期待の最も高い映画作家である。イオセリアーニの反時代的で自由でお洒落な映画は、ジャン・ルノワールやボリス・バルネットのおおらかで辛辣な映画を愛好する映画狂、映画を通じた想像力の解放を求める自由人、怠け者のくせに好奇心旺盛な趣味人たちの中から、映画作家イオセリアーニを「発見」し、その作品の細部を偏愛してくれる同好の士が出てきてくれれば幸いである。 |
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なお、2001年にはサン・セバスティアン映画祭でイオセリアーニの全作品が上映され、本年2月にはパリでもイオセリアーニの回顧上映が予定されている。イセリアーニの新作『月曜の朝』はベルリン映画祭でお披露目される予定である。 |
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(追記)
日本未公開作を含むイオセリアーニの各作品の詳細については、『オタール・イオセリアーニ監督特集』解説冊子(アテネ・フランセ文化センター。正誤表を含む改定版あり)を参照のこと。
また、イオセリアーニ自身の文章の邦訳として、「ボリス・バルネットについて」(『映画監督のお気に入り&ベスト映画』、エスクァイア マガジン
ジャパン)、映画原案「妻は夫を欺くために外出した」(『映画監督の未映像化プロジェクト』、エスクァイア マガジン ジャパン)がある。
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>> シネセゾン渋谷:http://www.cinemacafe.net/theater/css/
>> 『素敵な歌と舟はゆく』公式サイト:http://www.bitters.co.jp/suteki/ |
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