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『カンダハール』:いかにもいかがわしく、かつ極めてリアルな映画/橋本一径
 昨年のカンヌ映画祭ではエキュメニック賞*[1]こそ受賞したものの、評価としてはフランスを中心に否定的な見解がむしろ目立ったモフセン・マフマルバフ監督の『カンダハール』をめぐる状況は、周知のように「9月11日」以降一変する。10月7日のアメリカによるアフガニスタン空爆開始とともに、映画のタイトルに選ばれた土地の名はタリバンの牙城として連日マスコミを賑わし、予定されていた公開日は各国で相次いで繰り上げられ、イタリアでは興行成績1位を記録、何を勘違いしたのかブッシュまでもが英語字幕つきのフィルムをフランスから取り寄せてホワイトハウスで上映会を開いたとさえ伝えられる……。しかし周囲でのこうした派手な喧騒とは裏腹に、この作品の物語そのものはむしろあくまで極めてオーソドックスなものであることを、まずは確認しておこう。カナダに亡命したアフガニスタン出身の女性ジャーナリストが、故国に残してきた妹から自殺をほのめかす手紙を受け取り、予告された決行日の「20世紀最後の日食の日」までに彼女の住む町カンダハールにたどり着くために、相次ぐアクシデントに見舞われながらも旅を続けるというのが、この映画の粗筋である。行きずりの男を巻き込んで目的地を目指す女性の物語といえば、シネフィルならジョン・ヒューストン監督の『アフリカの女王』あたりを思い出すところであろう。あるいは既婚女性の素顔を人目にさらさないように医師と患者とをカーテンで遮った診療所を見て、『或る夜の出来事』の有名な1シーンを思い浮かべるというのは、少々うがちすぎだろうか。いずれにせよ『カンダハール』は、制限時間内に目的地を目指すというロードムーヴィの文法に忠実にのっとって撮られた作品であり、ヘリコプターに始まりトラックそして馬車や徒歩へと移り変わる移動手段ひとつを取ってみても、過不足なく目を楽しませてくれるものであるに違いあるまい。
 だとすればこの作品が、テロ事件の起こる前から、一部で過剰とも思える拒絶反応を引き起こしたのはなぜなのだろうか。それは主としてこの映画の現実との距離の取り方に関係している。現実に生じたエピソードなり事件なりを題材にして、それを自由に脚色しながら一本の映画を練り上げていくという手法は、これまでにも例えば『サイクリスト』や『パンと植木鉢』などにおいてマフマルバフ監督が得意としてきたものだが、この『カンダハール』もやはり主演女優のニルファー・パズィラが実際に受け取った友人からの自殺予告の手紙をもとにしているという。こうした手法はしかし「現実」であることを隠れ蓑に実はその他の多くの現実を覆い隠すものだとの非難を浴びることになる。例えば『ル・モンド』紙のジャン=ミシェル・フロドンに言わせれば、この映画は「西洋人が全会一致で非難できる状況」を「広告のメソッド」を駆使して描き出す一方で、「どこからその状況が生まれたのか」などの問いを封じこめているという*[2]。フランスを中心とするこうした論調は、この国で積み上げられてきた映画批評の歴史を背景に持っている。かつてアンドレ・バザンは「透明性」の映画を旗印に、あらかじめ定められた意味を何一つ持たない現実をできる限りそのまま再現することが映画の使命であるとし、いわゆるネオリアリズモの諸作品に賞賛の声を寄せた。しかしキャメラをスタジオから担ぎ出し実際の街中でそこに暮らす人々を俳優に起用したネオリアリズモにしても、結局はより本当らしい現実を偽装しているにすぎない(あるいは実際問題として素人演技のせいでむしろ逆に「本当らしく」見えなくなる)との反省から、ヌーヴェルヴァーグ以降、それが「撮られた」現実でしかないことを映画の中で積極的にさらけ出してしまうフィルムが出現し始める。この映画史的な系譜の延長上に見事に位置を確保しているのが、マフマルバフ監督と同じイラン出身のアッバス・キアロスタミである。『カンダハール』とキアロスタミの新作『ABCアフリカ』は、共にカンヌで上映されまたフランスでは公開時期も重なったことから、しばしばふたつ並べて、しかも後者は前者の欠点を巧みに回避しているとして論じられた*[3]。国連の依頼によりウガンダのエイズ孤児たちの姿をDVカメラに収めたキアロスタミのこのドキュメンタリーの冒頭シーンは、監督のファックスが国連から撮影依頼の手紙を受信する映像である。もちろん依頼前からカメラを回すことなどありえない話なのだから、この映像があとから再現されたものであるのは一目瞭然であり、冒頭からこのドキュメンタリーは自らの「本当らしさ」を放棄し、「撮られたもの」でしかないことを告白して見せているわけだ。これまでにも「撮られていること」を意識的に映画にしてきたキアロスタミが、こうして映画史的な流れを受け継ぐ寵児としてもてはやされるのに対し、マフマルバフのほうは、ネオリアリズモ風の素人俳優を相も変わらず起用しつづける異端児もしくは時代錯誤者との扱いを受けるのである。
 なるほど『カンダハール』には、フロドンの言うように隠された現実というものが確かにあるのかもしれない。例えばこの映画には「タリバン」という言葉は、「神学生」という語の本来の意味で一、二度口にされるのみで、カンダハル(この都市も画面には結局登場しない)がどのような政権下でいかなる状況にあるのかは,何一つ明らかにされない。これはひとつにはタリバン非難で一致する「9・11」以前の世界に対する監督の苛立ちという側面もあるだろう。彼が焦点を当てるのは、タリバン政権下で国際世論から無視されて生きる人々、具体的にはブルカの下で口紅をさしマニュキュアを塗る女性たち、あるいは赤十字キャンプで妻の義足のサイズに気をもむ男である。映画の後半で婚礼行列に紛れ込んだ主人公は、検問でブルカの中を覗き込まれる。今日アフガニスタンとパキスタンの国境上では、タリバンの残党を見つけ出すためにパキスタン女性兵士がアフガン難民のブルカの中を検問している。ブルカを覗き込む側は別人になっても、覗き込まれる側はいつも同じだ。そしてこの変わらない側の人々に向けられたマフマルバフ監督の眼差しは、タリバン政権崩壊後の今もなお、やはり変わらない意義を持ち続けるだろう。
 しかしそうだとすれば『カンダハール』は結局のところ、「広告のメソッド」を駆使して悲惨な境遇に置かれた民衆の姿を伝える、分かりやすいヒューマニスティックなドラマにすぎないのであろうか。けれどもそれにしてはこの映画の映像はあまりにも謎めいている。人形の形をして子供をおびき寄せる地雷、神学校で機関銃を誇らしげに抱える少年、空からパラシュートで投げ落とされる義足……。『カンダハール』で語られるこれら多くの現実離れしたエピソードを前にして、私は思わず「これは真実なのか」という問いを自問せずにはいられなかった。しかしインタヴューでそれらの真偽を問われても、多くの場合マフマルバフは「あなたはどう思いますか?」と問いを投げ返すだけである。だがこれははぐらかしであるよりもむしろ、監督自身もまたアフガンで同様の問いに直面したためなのであろう。映画の中には地雷に手をついて片腕を失ったという一人の男が登場する。赤十字キャンプに押しかけた男は、義手がもらえないと分かると、今度は帰り道の用心のために、あるいは年老いて来ることのできない母親のためにと言って義足を無心し始める。腕を失った理由(実はタリバンに切り落とされたのではないか?)からしてすべてがいかがわしいこの男の話の真偽を確かめる術は、しかし何一つ存在しない。そしてアフガンで直面することになるのはおそらく、多くのこのような嘘とも真ともつかない存在たちである。真か偽かの問いを突きつけるものこそがイメージであるとするなら、この「イメージのない国」(マフマルバフ)アフガニスタンにおいては、言わば現実そのものがイメージと化している。その「イメージ=現実」に、スクリーンを通して直面するとき、問い直されるべきなのはむしろ現実と映像をめぐるこれまでの言説の方であることに、われわれは気づかされることだろう。
カイエ・デュ・シネマ・ジャポン
>> 季刊映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』による映画日誌。

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