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セットに日本風意匠を用い、ゲイシャガールの話を次回作の企画として挙げているスピルバーグのことだから、A.I.と書いて日本語で「愛」と読めることぐらいの知識は得ているだろう。そこで、『A.I.』というこの難解な映画を、つまり「愛」が難解であるがゆえに難解に仕上げられたのだ、とするのは、しかしさすがに強弁が過ぎるだろうか。だがスピルバーグという男は、そんな一種の単純さに掴まれた特異な男なのだ。例えば、『激突!』で怪物トラックを断崖から落とし、また『ジョーズ』で水面に浮かぶ船を縦に沈没させて以来、「横の物を縦にする」というような単純明解な図式にこれほどこだわった者もそう多くはいない。今回の『A.I.』でも観覧車は倒れる、植物状態でカプセルの中に横たわった子供が、二千年後にヘリの操縦席に座った姿勢として反復される。それらがこのスピルバーグの刻印である。『ジュラシック・パーク』の探査トラックが崖から滑り落ち、ワイヤーで吊るされるシーンに手に汗握った者なら、誰もが記憶しているだろうこの単純さは、だが一旦説話論的持続との関係を問われるや、途端にその難解を露にする。単純さとは、要するにどこにも還元されない無意味な図式=主題の浮遊であり、そこに意味を求めても無駄である。ここ最近のスピルバーグは、専らその単純さを語りの主体に求めている。『プライベート・ライアン』の語りの主体は登場人物の誰であったか。回想形式でありながら、その回想の主体は老人の姿で最初に登場したきり、作品が後半に及ぶまで回想されるはずの若き姿を現わしはしない。だが題名の「プライベート」という言葉が「二等兵」という意味を表すダブル・ミーニングのシニカルな齟齬が、主体=ライアン二等兵をノルマンディー上陸作戦において戦死した兵士らの累々たる亡骸の中にいったん埋没させ、そこからふと蘇生したかのような作品後半での登場を目的としていることは容易に想像がつく。大量戦死の「パブリック」とそこから発見される「プライベート(二等兵)」。そのセンチメンタルな目的だけを見るのではなく、形式の法則を破壊しても語りの主体にあくまで「二等兵」と「プライベート」の間のシニシズムを生きさせるスピルバーグの、決してシニカルではないこの奇妙な単純さに注視しなければ、『A.I.』というひどく難解な映画を読み解くことはできないだろう。 |
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だがいったい『A.I.』のどこが難解なのか。「僕をママの子供にして」というロボットが二千年の時を経て、遂に自分の思いを果たす、という一応の筋書きは、とりあえず難解ではないどころか、きわめてよくある紋切型のおとぎ話にしか見えない。すでにさまざまな場所で云われているように、この物語の起源は「ピノキオ」であり、そのロボット版であることに疑いの余地はない。また、冒頭とラストに登場するナレーションの主=語りの主体が二千年後の未来人である、という設定も、近未来を舞台としたSFでは常套手段である「終わりから見られた物語」として納得できる。だが実は、その「一応の筋書き」とその語りの主体のごく簡単な確認に思わぬ落とし穴が隠されてある。我々はしばしばナレーションという方法を作品に発見するや否や、それが語りの主体であると自動的に判断を下してしまう。だが映画においては、「誰が見ているのか」という視線の主体こそが語りの主体であるはずだ。もちろん視線を解体し、複雑化した現代映画においては、その主体を一人(一つ)に限定することは容易ではなく、そもそも主体性を問題にすること自体、古典に呪縛された問題設定として片付けられるかもしれない。だが映画はそれを決して充分に咀嚼してきたわけではなく、それゆえにモデルニテへの移行が曖昧にしかなされていない不完全なメディアである。スピルバーグの意図がその徹底した追求にしか見えないと云えば、やはり強弁が過ぎるということになるだろうか。だが、こと映画話法に対しては彼がシニカルにはなりえないのは確かだと思う。 |
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それにしてもとにかく画面に注目してみれば、あるいは問題はすぐに氷解するかもしれない。前述した「横のものを縦にする」主題、「植物状態でカプセルの中に横たわった子供が、二千年後にヘリの操縦席に座った姿勢として反復される」画面はいったい誰によって見られた視線か。そこにいるのは顔のない、差異を見つけることの困難な相貌の未来人たちである。だが凍りついた水陸両用ヘリの窓から見える子供ロボット・デヴィッドの覚醒を映し出すその画面は、開巻後しばらくして見られた、その後デヴィッドを入手することになる母親の本当の子供の姿を、「横のものを縦に」した反復である。そして、そこで二つのカプセルを覗いているのは悲嘆に暮れる母親その人に他ならない。また、前半の終わりでデヴィッドを森に置き去りにする際、そこでの決定的な画面、すなわち車のバックミラーに映る立ち竦んだデヴィッドの姿を見たのは誰か。言うまでもなく、運転者である母親に他ならない。この二つの「見た目カット」を経由して到達した、ヘリの窓越しに覚醒するデヴィッドを見守るその視線は、この母親のものである、という推測が、これらの「ガラス越しの視線」という共通した主題を形成する三つのカットから導かれる。 |
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では、その間に見られるデヴィッドの受難は? |
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ロボットの物語である限り、『A.I.』を主人と奴隷の物語として考えることは別段不自然ではないだろう(雑誌「ユリイカ」ロボット特集号のサドッホ「狂気時計」を参照)。そして、そこに刻まれたキューブリック的な倒錯が、この権力関係を母子の関係において捉えたところに、あるいは難解さの端緒がある。つまり、これは優れてスピルバーグ的映画でありながら、同時にキューブリックの遺作『アイズ・ワイド・シャット』の最後の台詞「Fuck!」を継承し、「Fuck!」のその後を展開した物語でもある(ジュード・ロウ演じるファック用ロボットがデヴィッドを導くのももちろん伊達や酔狂ではない)。処女作『非情の罠』の一場面に酷似した、デヴィッドが自分のプロトタイプである吊るされた人形たちを見てしまう博士の部屋の場面が、その処女作を支配した父権的な抑圧の、百年後の悔悛を物語るなら、この映画全般とはマゾヒストの母親(デヴィッドを、愛も憎悪も嫉妬も持ち、涙さえ流す人間にするのは、母親によるインプット=「契約」によって、だ)が子供ロボットの受難によって自身に与える被虐の夢想の、二千年後の悔悛を物語っている、と言ってみるのはどうだろう。未来人とは母親の「変装」した姿に違いないし、あのナレーションの声も実は母親役の女優の声を加工したものなのではないか。だがいくら母親といってもマゾヒストに悔悛などあるはずがない。それを悔悛、と見せてしまうのは、やはり世間でよく言うスピルバーグ的善意なのか。たぶんそうではない。ここでスピルバーグが見つめているのは、善意ではなく「関係」なのだ。『A.I.』に自らの出発点を重ねて見ているのはキューブリックだけの話ではなかろう。スピルバーグにとってもまた『A.I.』は、その劇場デビュー作『続・激突! カージャック』を裏返しにした、遥かなリメイクでもある、と考えられ、それを考慮に入れるなら『カージャック』について小説家・中上健次が書いた批評(『鳥のように獣のように』所収)における「関係」というきわめて中上的な言葉によって、『A.I.』はすでに予告されている。つまり、その「悔悛」もマゾヒズムの倒錯を孕んだ母子の「関係」の一要素に過ぎない。いつの時代でも、結局は「子供など、どうでもいい」のである。
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もちろんこの手の読解は多少詳細に見ればいくらでも可能であり、それ自体はいささかも難解ではない。難解なのはそれをこのように作ってしまうスピルバーグの単純さへの意志とキューブリックの倒錯の畸形的な融合であり、彼らにそうさせてしまう「愛」の方である。何しろフィルムには「愛」など写らない、と誰もが知った気になっているのだ。それでもスピルバーグは、そんなシニシズムに陥ることなく「愛」をあえて難解なままに描いた。世界に冠たるヒットメイカーとしては、公序良俗にもとるような倒錯なんかを全面に押し出した映画に大ヒットは望めない、と考えたからか。たぶんそういうことだろう。キューブリックの倒錯した愛を難解さによって隠蔽するスピルバーグの野心。だがどんな理由によってであれ、わかりやすさよりわかりにくさの方がいつでも貴重であるに決まっている。現在この国を包囲しつつある小泉純一郎一派のわかりやすい「感動」に対して、スピルバーグとキューブリックのこのわかりにくい「愛」=『A.I.』を断固支持する必要がある、と私は思っている。考えれば、小泉や田中真紀子はもちろん、最近のハリウッド製映画も、そのことごとくが父子関係を中心に巡っている。そんな時期のこの難解な「母子関係」映画の存在意義を、我々はもう少し真剣に検討しても損はないのではないだろうか。 |
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